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社会が分断傾向になる理由と、分断が良くないと思う自分の理由

分断が起きる理由、こう考えます。

戦後日本は荒廃した社会を建て直すために、欧米を模範に、模範のような社会を目指して賢明に働いた。頑張れば頑張るほど生活が物理的に豊かになった。

生活水準は西欧に肩を並べて、知識と技術を身に着けた自分たちを誇りに思った。しかし90年前半にバブル崩壊。それまでがむしゃらに働いていれば良かったのに、それだけでは駄目だったことを急に突きつけられた。プライドが傷つけられたけど何が悪いのかわからない。

そんな最中、90年代後半にはネットが普及した。米国から渡来したWindowsに職場が支配され、Webやメールで仕事の形が急変した。新たな技術で、それまでの不便が解消されて便利になる一方で、そんな技術開発を日本では出来なかった劣等感に苛まれる。

更にはその技術的な変革に適応するのは大変なのに、若者は難なく適応できる。高度成長期を築いたのに、こんな情けない仕打ちを受けるとは、と悔しい思いが劣等感に輪をかける。それでも年上として情けない態度を出さず立派でいないといけない、と信じて、踏ん張るための自尊心を満たそうとする。

上司としての優位性を探して見つけたのが「年齢」で、それを活かす仕組みが「管理社会」。そうして2000年前半から会社の「管理」が厳しくなった。コンプライアンスと横文字を使って服務規律を強化した。中間管理職の責任が増えて忙しくなった。

従業員と親しく話す機会が減って、心と心が通い合う関係から、契約で結ばれた関係に変容した。飲みニケーションなど廃れてもいいが、感情を交換しない関係は問題で、それによって関係性が無機質になった。互いに規律に基づいて行動し、規律に基づいて言動する。人間から機械に変容した。

常に「何が正解?」と規律を外部に求めるようになり、上司も常に「自分が規律」を意識して立派な存在で居ようと努めた。その立派さを評価する尺度は、職位などの社会的地位とか、思い通りに出来る裁量権など、他者を支配する力の強弱で人を評価するようになった。いや、元々そうだったのが強化された。

日本は戦後、日本国憲法で、表面的には民主主義に転換したが、政治も企業も制度的には封建主義のままで、年長者が優位な形が取られていた。そのトップダウンの形は国民総力戦の高度成長期には有効で、全ての職位が模範を目指せば良かったから、上司の実力と地位にズレがなかった。

それがひとたび経済力と生活水準が西欧に肩を並べたとたんに模範を失ってしまった。上司は自分の権限を活かしてアレヤコレヤ挑戦するけど、具体的な模範がないから自分の成功体験を再現しようとする。それがバブル発生の動機。カネ集めに一心不乱になるけど、その集め方は視野が狭くて独善的。

地価が高騰して土地を転がして資産を増やす。資産が自尊心を満たして、羽振りのイイ遊びで自己顕示欲を満たす。そうして資産価値を増やすことに躍起になったのがバブル時代。正気を失うほど遊びに興じて、社会の骨を強くするような仕事を怠けた。高度成長期の延長線だが、所詮それはバブルだった。

もしここで、戦前から続く封建主義体制を本格的に手放して、憲法に基づいた民主主義体制の構築に勤しんでいたら、今の日本は違っただろう。バブル崩壊直後、細川政権の誕生は、その最大のチャンスだった。

記者会見で細川護熙首相がペンで記者を指す姿は、権力から開放された西欧文化に憧れた自分には格好良く映った。高度成長期を牽引する強力なトップダウンの自民党政治から、本当の民主主義に大転換する、そんな期待を寄せていた。

しかしそれも長続きせず90年代後半の政治は混迷した。連立政権の形がコロコロ変わる玉虫色で、有権者は政治無関心になり投票率が一気に減った。そうした政治混迷の末、小渕政権で自民党の単独政権。職場ではWindowsに支配されはじめた頃で、国全体で失われた自尊心を取り戻す願いが強まった。

その頃始まったコンプライアンス体制を道具にして、組織の締付けは強化された。社会においても風営法の罰則が強化されるなど息が詰まる場所が増えていった。そんな社会では力を持つ者が自尊心を満たし、力の無い者は自尊心を満たせない。そうして勝ち組・負け組という言葉の通り、社会が二分化した。

優劣で二分化した社会の延長線は封建主義体制。為政者には好都合で、民衆の意思を尊重しなくとも、地位が揺らぐことはない。日本国憲法の本質に照らすと反しているが、大日本帝国憲法に照らすと合理的。しかしそれを公言できないから、戦後レジームからの脱却とか美しい国と言い方を変えて浸透させた。

その揺るがない体制を築いた政権は、その優位性に胡座をかいて、その結果が今の政治の情けなさとして現れた。分断は為政者とその取り巻きの自尊心を満たすことに役立つ。そんな社会で大人になったものは、強いものに取り入るものが当たり前に感じている。しかし分断は巡り巡って自分たちの首を絞める。

誰もが生まれも育ちも環境が異なるから、人それぞれの個別性は尊重されなくてはならないが、個別性の尊重はとてもめんどくさい。民主主義は面倒くさいのが当たり前。その面倒くささは自由の裏返し。不安は自由の目眩なのだ(キルケゴール)。そこから逃走すると全体主義に辿り着いて個別性を自ら捨てる

全体主義が封建主義体制を作り「上の人に従うのがルール」という意識を作る。結果として自分特有の発想は永遠に発揮できず、社会のコマになるしかなくなる。同時に「上の人に護ってもらうのが当たり前」という意識も作り、自分の人生の未来を描くことすら無駄と思うようになり自分自身を無機質にする。

分断がある社会は白黒つけやすいから悩まなくて済むけど、いつ自分が弱い側に立たされるかわからないから、自分を見つめることよりも、護ってくれる強いものを追い求めることに時間をかける。それは人間的ではないし、民主主義ではない。民主主義は面倒なのは、人間自体が面倒だから仕方ない。

その面倒な人間同士が連帯して社会を作るには、やはり建設的に話し合うしか手がない。勝ち組・負け組の思想に囚われて討議ばかりでは前進しない。互いに共通の課題があって、それを卓上にコトンと置いて「さぁどうしよっか」と対話を重ねる関係が必要。結論に急がず、相手を尊重して熟議する余裕が必要

考えるのは面倒だけど、うまくいったら自己有用感が得られる。自己有用感は「自分のこれまでの人生が無駄じゃなかった」と自分の存在と自分の歴史を肯定する。それを一度体験すると、自分が自分である感覚を長い期間持ち続ける。その感覚が自己斉一性。この感覚は生きるためにも死ぬためにも大切。

僕の目標は、死ぬときに「あぁいい人生だった」と思うこと。そのために毎日を懸命に生きる!という人は多いでしょう。僕は振り返った自分の人生を肯定しながら死にたい。自分の実力不足であれこれ失敗したことも含めて「いい人生だった」と振り返りたい。その支えになるのが自己斉一性だと信じてる。

最後は自分の話をしてしまったけど、人は必ず死ぬもので、いい人生だったと思って死ぬことは、他の誰にでも適用できることは道徳的だと思う(カント哲学ってそうだったような記憶)。

長くなったけど、社会が分断傾向になる理由、分断が良くないと思う自分の理由を述べました。(以上)

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