人生を支配する「誰かがやるしかない」という言葉
ゴールデンウイークに、久しぶりに同期と会う機会を持てました。
わたしたちが、採用された年は、採用の枠が少なく、中学校の教員は、わたしと彼の二人だけで、同じ中学校に採用となりました。
当時、採用された学校では、わたしたちは最年長で、先輩方に、厳しく優しく、とてもかわいがっていただきました。
先輩方に叱られるときも、親睦会ので行事を仕切る時も、同期の彼とはずっと一緒でした。
わたしの結婚式では、『乾杯』も歌っていただきました。
それから、お互い、別々の市町村に転勤となりましたが、今でも、年に1回ほどは、会って食事をする間柄です。
あれから20年たち、それぞれ、教頭と教育委員会の指導主事として働いていました。
そして、今年度早々、同期の彼から「校長になった」と電話で報告をいただき、じゃあ飲みにいこうかという流れになりました。
たわいもない昔話をしながら、それぞれの近況を話し合いました。
この先も、学校の管理職なんてとんでもないと思っているわたしは、「なんで校長になったの?」と聞いてみました。
すると彼から、「誰かがやるしかないねん」という言葉がかえってきました。
「誰かがやるしかないねん」…
この言葉に翻弄され、自分も教頭試験を受けたなということを思い出しました。
「誰かがやるしかないねん」…
ということは、誰がやってもいいということ。誰でもいいということ。
しかし、当時のわたしは、この言葉を言われたとき、学校のため、市内の教育のため、子どものため、保護者のため、職員のためを思うと、自分が行かないといけないという切迫感が強く感じられました。
だから、自分のためだけのことを考えることが、「罪」のように感じられました。
「誰かがやるしかないねん」…
その役を担うのは、誰でもいいはず。
しかし、自分の人生をデザインできるのは、わたしのみ。
「誰かがやるしかないねん」という言葉に、自分の人生を翻弄されずに、どう言われようと、見られようと、なんと思われようと、自分だけの人生を、納得いく方法で、自分でデザインしていきたいと思いました。
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