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コミュニケーションと後悔と邂逅

うちの旦那は「人はコミュニケーションに言葉を選んだ時点で他者と分かり合えない運命が決まった」的なことを言っていて、ならば分かり合える努力ができる人になろう。みたいなことを決意した若かりし頃のわたし。

殴りに行っていいなら考え直せと説得の拳を準備している程度には、その信念に大変大変苦労する日々を送っています。

先日、友だちとふとその話になった時「音楽とかアートでコミュニケーション取れるなら、それでやってみてもろーて良いですがね」とコメントされたのが痛快で、コミュニケーションうまくいかないのはわたしの責任と思わなくてもいいんじゃん!
という邂逅がありました。

なんだかそれを思い出した年末‥行事への温度感の差に悩む時に気持ちが楽になる解釈に助けられています。
ささくれだっちゃう時、ナイフの先にあるのは自分じゃなくてもいいって、ちゃんと意識して考えることも必要だなと思います。

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