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日記:美的な判断基準はどんどん磨いたほうがいいよね【24.06.12】


何を良しとして生きるか、それがとっても大事じゃないかなって思います。僕らは、自分の価値観や判断基準に則っていきていて、その都度の選択は自分の価値観に照らし合わせて行っています。選択の影響はそのまま結果につながりますから、判断基準ってとっても大事だと思うんですよね。修正はあとからできるわけです。やり直すことだってできる。

で、クリエイターにとって大切になってくる判断基準って、何を美しいとするかだと思うんですよね。それって、言葉で言い表せない何かだったりするんですけど、でも明確に自分の中の基準としてあるものだと思うです。何かを作るとき、技術は二の次でいい。技術はあくまで方法にすぎないし、つづけていれば勝手に身に付くからです。何に向かって進むか、その「何」が大事なんです。美しいと思うものが違うあるいは、深さが違うと、同じ目線で話すのって無理なんです。だって感じていること、良いと思うことが違うから。

何を美しい、良いと感じるかは自分の性質や志向性に基づいて、人それぞれなわけです。まあ人それぞれとはいえ、大まかな性質の傾向というのはざっくり分けられるんでしょうね。だから、好きな音楽が似てる人は好きな服が似てたりするんです。それは、何を美しいとするか、良いとするかの傾向が似ているから。そういう人たちは、選ぶ言葉も、普段の気遣いも似てたりするんですよね。まあ似ているというだけで、部分的に重なるというだけで、全く同じってことはないんですけどね。だから「花束みたいな恋をした」は、ちょっとやりすぎじゃないかなとも思うんです笑。まあ映画だし、ああいう脚本の方が運命感じますけどね。

何をよしとするか。の部分って、言葉では言い表せない部分だったりするでしょ。でも確実に存在しているから特にクリエイターはよくよく磨いてたほうがいいんじゃないかなと思うんです。感性は深めていけるものだと思うんですよね。何がきっかけで深まるとかよくわからないし、年齢を重ねていったら好みが変わったりとかあるんですけど、少なくともそれを好きでいる間は、どんどん深くまで入っていけるようにしたほうがいいと思います。そうやって磨いた基準や価値観は必ず自分の制作に生きてきますから。

僕はね、文章に関してはまだ訳のわからないまま書いてる自覚あります。そういう美しさ基準があんまり明確じゃない。明確じゃないだけで、なんとなくはあるんでしょうね。でもそれもいつか僕の中で時間をかけて定まっていくのだと思います。ぼんやり作ってるものって、後になって振り替えたときちょっと恥ずかしいですよ。こうやって書いている文章もいつか恥ずかしく思う日がくるでしょう。でもそういうものですから。むしろそれはとても喜ばしいことで。僕は何かそうやって価値観が変わっていった後の自分に後悔したことってないです。むしろ嬉しい。でもはずかしい。だけど、きっとそれが本来の形だったんだって思えるからいい。それはまるで、土の中に眠る化石を掘り起こすような感じだと思うんです。きっとまだぼんやりとしてるんです。少なくとも文章に関しては。なんとなく、ここら辺の土に化石があるのはわかるけど、まだ形がざっくりで、構造までは見えてこない感じ。でも、文章を書き続けながら、いろんな文章を読んでいったら、どんどん土が除去されて見えてくると思うんですよね。僕はそれがとても楽しみ。

たぶん、僕はほぼリアルタイムでカタカタ思考しながら書いているんで、納得いくものを産むには歌の感覚と近い気がするんですよね。本来文章って編集できるし、実は最近少しだけ読み直すようにしてはいるんですけど、でもほぼリアルタイムの思考をそのまま載せてるだけなんですよね。でも歌って、発した瞬間に出て消えるものでしょう?だから、いい歌を歌うという意識に近いと思うんですよね。で、いい歌声にしようとするときに考えてることって、僕の場合は優しさだったりするわけです。あんまりびっくりするような歌い方はしたくない。だから、文章もそういう基準が必要なんでしょうね。今はただ思考して垂れ流しているだけで、そこまで意識ができないんです。でもきっといつか、思考しながら、でも自分が納得するような言葉を並べるということができる気がします。とってもむずかしいけれどね。論理性に関してもそう。本当はリアルタイムで、論理立てて書いていけたらいいんだけれど今はあんまりできない。だから、まあ最低限の誤字脱字と違和感を拭うくらいの編集、つまり、もっかい読むくらいはしてます。一回読むくらいなら、まあそこまで負担でもないんでね。読み直しながら、何がいいたいのかよくわからんみたいになりながら読み返してますよ笑 僕、もともと商業ライターなんでめっちゃ整理された文章書くの得意なんですよ実は。そうは見えないと思うけど。でもなんでできるかというと、めっちゃ編集するからです。書くの3割で、7割は編集してる。音楽もそう。僕は編集が得意な人間なんだと思います。編集に必要なのは基準ですから、きっと基準をいっぱい持っているんでしょうね。でも、編集をしない土壌だと、いっぱいボロがでます。この文章もそう。歌もそう。たくさんボロがでます。本来はじっくり後から考えるのが得意なタイプだからです。でもそれは、クオリティを担保しないといけない場面でいいんですよ。音楽の仕事の時は、クオリティを担保しないといけないんで、めちゃくちゃ編集するしじっくり検討する。商業ライターの仕事もそう。でも、僕は常々言っているけれど、ここでやりたいのは思考なんでね。だからクオリティは二の次だし、こういう勢いがあるのもまあよしと思ってはいるんです。でも、どうせなら、そういうリアルタイム性の中で美しいものを出したいっていうのもあって、それはこれからの課題なんですよ。歌も、いまだに難しい。きっと一生そうなのかもしれないです。だけどやり続けてたら少しづついい歌声だせると思うし、いい文章も書けると思う。だから、まあ色々美しいものに触れて、自分の中で基準を作って、そんな感じでやり続けようと思います。

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