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露木陽菜(ツユキ ヒナ) 

彼女は今、木漏れ日の射す自室のベッドに横たわり天井を見つめていた。
肌を刺すような寒さは徐々に木々の瑞々しい息吹を纏いながら暖かなそよ風に変わる。
宮城県仙台市、東北一の都市と言われたこの街の春、陽菜は天井の一点を見つめていた。
「わたしは、なにをすればいいのだろう。」
その言葉を発するでもなく、しかし考えるでもなく陽菜は、只、思う。
ひたすらに見つめ続けていた真っ青な淀みない天井はまるで湖の様で
ぐるぐると頭の中を巡らせた思いは、結果、よくも分からない感情に成り
陽菜は浅い溜め息を添え、そのヘンテコなものを湖に「ふゥっ」と投げ入れるのであった。

三年前の春、陽菜は山形の実家を出て仙台へやってきた。
東北に住む人間にとって、仙台という街は地方の中でも都会であって
しかし、それは東京や大阪などに比べれば勿論、都会と呼べるか曖昧なのだが
陽菜を含む地方に住む人間には距離的にも手近で何処か行きやすさがあり
専門職を取り扱う学校なども多い為この土地を訪れる若者は少なくない。
そういった事を含め、仙台市が東北の中でも都市と呼ばれる一因となっているのだ。
陽菜にとってもそれは例外では無く、しかしながら明確な目的は無いまま流れ着き
決して長いわけでもなく短いでもない三年という月日をただ身の流れるまま過ごした次第だ。

小さな丸テーブルとベッド、年相応の女性が置くような可愛らしい雑貨なども無い陽菜の部屋で
一際目を引くのは古めかしい木製の棚に丁寧に収納されている大量の本達だった。

本は見果てぬ夢と冒険、そして先人達の知恵と人生を体験できる唯一のもの。

小学校高学年の頃、図書室の管理をしていた初老の先生がかけたその言葉は
陽菜が本を読み始めたキッカケでもあり今でも心の中に深く残っている台詞だった。
天井に向けてため息を投げてから、さっきまで完全に意識を向けていなかった全身に力を入れ
彼女はベッドからゆっくりと体を起こす。木漏れ日が射していた窓の外はもうすっかり日を落とし
しんとした空気と共に闇が広がっていた。もう、夜か。
ベッドから数歩の場所に置いてある古めかしい本棚に陽菜は歩み寄ると一冊の本を手に取る。
星空の中に大きな動物が揺蕩っている様な幻想的な表紙のその本を見つめ、微笑む。
著者 水無月コウタロウ 仙台市出身の小説家。陽菜はその本を愛読していた。
表紙を捲り明朝体の文字を読み進める。陽菜はその度、果たして何度目か分からない作品の世界にすっと吸い込まれてしまう。

「このまちにくれば、なにか、わかる気がしたんだ」

若さというのは説明ができない荒々しさと繊細さが渦を巻いている。
陽菜はその衝動を行動に展化させることが、こと早かった。
自分自身に影響を与えたような気がする作品の著者が住んでいた場所、そこに答えのようなものがある気がした。
悪く言えば何も考えず行動しているともとれるが、紛れも無く陽菜がこの地を踏んだ理由がそれだった。
しかしながらそういった事が周りの人間に理解されるとは思わないと客観視した陽菜は
適当な話を振りまいては何処か形式的な人間関係を壊さずに本音を隠したままだった。
陽菜にとって平穏な日々を過ごすことは嫌悪でもあったが、それらを壊さないままでいることも妙な秩序でもあった。
相反する気持ちを胸に抱えながらもこの地に来た。否、来てしまったという心情を思い出す。

数ページ流し読んだ後、陽菜は本を閉じた。さっき吐いたはずのヘンテコなものがまたぐるぐると頭を巡る。
頃合を見計らったかのようにお腹が鳴った事で陽菜は今目の前の自身の現実に引き戻された。
意識は空腹という逃れられない感覚が途端に体を支配し、食べ物を探すという行為に全身が合致する。
作り置きしていたカレーは昨夜の自分が全て食べていたことは理解していたし、食材もそこで全て使い切っていた。
どうせ何も入っていないのは承知の上だが冷蔵庫のドアを開ける、、なにもない。当たり前か。
無意味だが定例の過程を一度踏んだ後、陽菜は財布と自室のカギを握り家を出た。
夜の仙台は日中の春の陽気さとは少し違い、気温の低さをまだ肌に少し感じる。
早く胃の中に何かをいれなくては。肌寒さを身に感じながら陽菜は歩みを進めた。
家を出てから最初の信号待ちをしていた時に自らの失敗に気付く。靴の形が違う。やってしまった。
近所のコンビニまでは歩いて五分程度の為、着の身着のままが常だったが靴を履き違えた自分が妙に許せなかった。
昔見たドラマか映画でドジな人間のすることの一つに自分が当てはまっている気がした為だ。
友達と呼べるような知り合いも無く、近所付き合いも苦手な陽菜にとって誰かに見られたら。という懸念は無かったが
一刻も早くこのドジの典型ともいえる失敗を訂正したく、陽菜は信号が青に変わると同時に歩くスピードを速めた。



自費出版の経費などを考えています。