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僕の蕎麦屋ができるまで②

2001年。5年間勤めた静岡県教職員をやめて一月後、縁あって沼津にあった京料理の名店『懐石八千代』に料理修行に入った。当時は28歳と、普通よりも10年遅い料理修行のスタートだった。

少年時代からの夢が破れ、未来を思い描く事の出来ない教員生活に見切りをつけて、自分の興味と好奇心のままにやれることはすべてやろう!と、大雑把な将来ビジョンだけを掲げて先ずは料理をと門を叩いた。技術や体力的な事などを考えて若いうちの方が良かろうと選んだ転職の第一歩だったが、今思っても大正解だった。幾つになっても無理ではない。しかし、やはり若さあって成り立つことも多いので、迷いや悩む暇があったらさっさと見切りをつけて進んだ方が、可能性が広がるのは間違いないと、現在の若者にも伝えておこう。

ここで修行した約3年間は寸胴に波々茹るコンソメをキューブに煮詰めてしまうくらいに濃厚で濃縮されたものだったので、詳細はまたに譲り、今回は蕎麦打ちに限った話。

親方、故・菅沼一郎氏は天才的な料理の腕前とともに、経営者視点でのモノの見方も持ち合わせていた。弱冠28歳で懐石八千代を開き、《道灌かがり》といいうステーキ屋を同じく沼津に出店。そして、3店舗めとしておそらく僕に任せて手打ち蕎麦屋を開こうと考えていたのだと思う。

「宗ちゃん、静岡行くぞ」

あれは僕が入って一年目の秋の、ちょうど新そばが出回る頃だった。普段に比べて暇気味な昼営業を終えたその日、親方と2人で三島駅から新幹線に乗り込んで向かった先は、静岡駅前にある松坂屋の最上階で開かれていた物産展。そこへ山形から蕎麦職人が実演販売に来ると言う話をどこからか拾ってきて、ここ最近立ち読みやら借りてきた手打ち蕎麦の本を読みふけったやらで得た知識を、目の当たりにして実践的に昇華し、我が物にしようとしていたのが親方で、引き連れ歩かされた僕も一緒に勉強しろって事だ。

僅かな滞在を二人で目に焼き付けて、夜の営業に間に合うように再び新幹線で沼津へと戻る。懐石の〆の食事に手打ち蕎麦を出したいといって、それから何回か親方が打った。親方が選んだのは信州の志賀高原方面でやっている《湯捏ね》という方法で、緩めの蕎麦がきをタネにして打つ手法だ。 親方は寿司屋の倅で小学生の頃から握っていた、いわゆる天才で、あの伝説のテレビ料理番組《料理の鉄人》からもオファーがあった人だ。しかも、ありとあらゆる料理を作ってきた親方からすれば、蕎麦打ちでさえその複合でしかなく、とっぱじめから抜群にうまい蕎麦だった。

毎回蕎麦打ちの時には横に置かれて、立って見ていろと言われた。4〜5回打った頃だったろうか。親方はこう言った。

「よし、俺は分かった。あとは宗ちゃん、お前やれ」

えっ、って言う間も無く僕がやることになった。物産展の一回と親方の数回を横で見ていただけだ。料理の腕前だってゼロに毛が生えたくらいに等しい。素材は全国的にも有名な沼津の《坂東製粉》の最上級の北海道産蕎麦粉。失敗は出来ない。そんなプレッシャーの中で見よう見まねで蕎麦を打ち、良ければ当たり前、ダメなら使って貰えず『賄い』になってやり直し。今の自分が見たならば、恥ずかしいほどに下手糞だったろう。

蕎麦は、同じ素材、同じ水、同じ作り方で、同じものを目指しても、打ち手が異なれば全く別物に出来上がる。それが俗に言う奥深さだろう。とどのつまりは誰が打っているかに集約される。自分もある程度形になってからは完全に任されるようになった。他の事は厳しい叱責やダメ出しや制約があっても、蕎麦だけは僕の裁量に自由を与えて貰った。親方は僕の性格をよくよく分かっていたんだと思う。僕は勝手気ままなヤツだ。自由が好きだ。だから、そうやって自分の手で蕎麦を作り出すことが本当に楽しかった。

「…蕎麦ならなんとかなるかぁ」

親友・辰野の言葉に背中を押して貰った時にそう思えたのは、そんな風に自分自身で蕎麦打ちを創ってきたからだろう。親方の打つ背中を基礎にして、自分の手で柱を立て屋根を葺き壁を作り、少しづつ普請したものだからだ。そして、20年経つ今も、基礎となる打ち方は一切変えていない。何故ならそれが親方に対する敬意であり、感謝だから。

その理由(わけ)を語ろう。蕎麦宗を開店する一年前の2004年の6月。『懐石八千代』を訳あってあがり、件の総菜屋の店長をやっていた時のこと。

「親方が倒れた」

と、兄弟子から入った一報で病院へ駆けつけた時は、時すでに遅し、まだ42歳の若さで親方は天国へと旅立った。なので、残念ながら僕の店『蕎麦宗』に来て、食してもらう事は叶っていない。

誰に教わることもなく、蕎麦屋に勤めることもなく、あちこち蕎麦を食べ回ることも、蕎麦通を極めようとしたこともない人間が、細々と手打ち蕎麦屋を始め、これだけ続いたのは、おそらく『蕎麦』という至極シンプルな食べ物と『蕎麦屋』という偏屈が許される職種ゆえかもしれない。

さて、どんな店にしようか。…こうして僕の蕎麦屋は始まろうとしていた。

#帰らぬ人 #新規開業 #転職 #転機 #蕎麦 #蕎麦打ち



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