なぜ猛省する必要があったか?
先日、こども(4歳)のおなかの調子が3日程前から悪く、病院に連れて行った。他の患者さんは一定の距離を空けて座っている。僕らが座った場所は待合室のTVの斜め前。番組はいわゆるバラエティの範疇に入る番組が流れている。僕自身は昨今のTVにおける(TVだけではないけれど)「バラエティ化」について懐疑的であるので、
「また垂れ流しか・・・」
と思ったけど、何も言わず息子を膝に乗せて長椅子に座った。その途端、息子が大きな声で僕に語りかけた。
「こんな番組、つまらないな、バカみたいだ、なぁ!?」
と。
語尾の「なぁ!?」は、僕自身としては「父親」、彼にとっては父親である僕に向けられた同調の気配である。確かにその番組はつまらないし、くだらないので、もっともな意見として同意できる。しかし、それはアダルトな世界でこそ通用する話だ。4歳児である彼には、その番組のどこが具体的に「つまらな」く「バカ」みたいなのかを理解できない。当たり前だ。
彼の言葉と僕の顔色を窺う感情的・身体的行為に対して、僕は、猛省した。他の患者さんやスタッフである他者に聞かれて親として恥ずかしかった訳ではない。そんなことはどうでもいい。
家の中(お茶の間など)で、TV番組やそこで語られる意見に対して辛辣な意見やネガな感想を述べることは、「こども」にとっては「他者」に対する悪口・批判・怒りであり、理解できない「叱り」であって、それはすなわち他者に対する言葉の暴力でしかない。
その結果、「こども」がどう感じるかと言えば、
「ぼくも、わるいことをしたら、あんなふうに、おこられる」
という恐怖感が埋め込まれ、
「オトナのまえでは、いい子にしなくっちゃ」
という凄まじい緊張感に満ちた日常に支配される。
悪いことをするのはこども特権である。
悪いことなんていっぱいすればいいし、悲しいときは泣けばいい。っていうか、やれ、やってやって、怒られて(叱られて)、理解して、またやって、ギターを叩き割って、あとはその高級な壷を落としてしまえええええええええええええっ!!ハァハァ・・・。
TVの話に戻れば、ああいったオトナの行為は、こどもを無理やり「オトナ化」させる作用を備える。これは、いわゆる「AC」(Adult Children)化に無関係ではない。
こういうことが繰り返されると、間違いなく自己肯定感が阻害される。もっと悪く、極端に言えば、平和な世代の「少年兵化」と換言できるかもしれない。その呪縛から彼らがオトナになってもなかなか精神的に離脱できないのは想像に難くない。広い意味での「洗脳」など、義務としての教育を例に挙げずとも、ガキの頃から始まっている。生物的にも社会的にも子どもらしく・子どもとしての自己を構築できないまま成長していく。
そのうち彼らは、息を殺すか、怒りに支配されるか、肩をすぼめるか。
これは、彼/彼女らが「オトナ」になるまで続く問題である。ある人は途中で気づくかもしれないが、気づかないまま首を垂れ続けて人生を終える人もいるだろう。
批評批判は創造の原動力でもあるが、相手がデジタルであろうがAIであろうが「生身の他者」という感覚・感性を持って、子どもの前では接すること。
僕自身は、猛省、その一点である。
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