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「ふるさと教育」という曖昧性と排他性について①

僕の仕事は公務員でありますが、ときに法令とは無関係あるいはその前段で議論が必要と判断される、自分では予期せぬ、疑義を呈したくなる用語や語りに頻繁に出くわします。

最近では、

「ふるさと教育」

この言葉を聞いて皆さんは何を想像するだろうか。おそらくは「ふるさと」の歴史を学ぶというイメージが一般的なのかもしれない。縛りの効いた限定的なつまらない行政文章(なんだそれ?)を書けと言われば「公務員の鑑」なら頭を捻りながらも書くでしょうけど、そういう訳にはいかない事項が存在するのも事実であります。

さて、「アジア」「西洋」「東洋」「地域」「都市」「田舎」「中心」「周辺」といった用語と同様に「ふるさと」あるいは「故郷」という用語についても、まずはその意味=定義を確認する必要がある。大人がぼんやりとしたまま「ふるさと」を扱えば学習の対象が不明瞭のままとなり、子どもに失礼という以上に、バカな関係者(形骸化した「民主主義」を含む)には「おぉ、いいじゃない」というその場しのぎの無理解・無知のまま物事が進んでいく危険性が往々にしてあります。
 だから「公僕」(この用語にも誰かそろそろツッコめよ)であるボクは、その業務を遂行するために少なくとも研究者による数本の論文を読む必要性に迫られる訳です(この行為が全うなのかどうかについては権力者以外の各々が考えればいいと思います)。

※その前にひとつ言わせて頂きたい。用語や言葉の選択が軽い・・・。

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社会認識教育学者・地理学者である武元茂人は、一般化された「ふるさと」「郷土」について、

「郷土は今日では、帰属意識や愛着を込めて、自分が生まれ育った土地、ないしは現在の本拠地を指す場合に使用され、主観的かつ非操作的な意味合いが強い」

と定義する。

武元が規定する「ふるさと」「郷土」の見方は今日にも繋がるもので、一般化した解釈ではあるものの、幅の広い見方として理解できる。

ここで重要なのは、「主観的」「非操作的」という文言である。

要約的に言えば、子どもにとって「ふるさと」を構成する要素とは一枚岩的なものではなく、ある子どもにとっては「窓外から見える校庭」であり、ある彼女にとっては下校途中に慌てて手のひらで支えようとした「初雪」であり、またある人にとっては実家の周辺に咲く草花であり、またある人にとっては初恋を伝えられないままでいる彼女である。一様化できないもの、それが「ふるさと」である。

と、心地良いことばかり書いたが、

むしろ忘れ去ってしまいたい「ふるさと」を経験する子どもが存在する、という現実もある。

「ふるさと」とはそれほどまで多義的で複雑な様相を呈し、彼らの将来にまで影響を及ぼす可能性≒危険性を秘めている。その意味では「ふるさと」とはそこまで無条件かつ全体主義的に絶賛・賛美されるものではない。賛美の主体はオトナであるが、それは具体的に誰なのか?そこにまず問いを発するべきである。

当たり前の話として、公の場で「ふるさと教育」を比類なき是とするオトナ達は、いい歳になった今でも、ふるさとに関わって “いられる”、 “いることができる” 幸運について自覚し、眠りにつく前に感謝すればよい。しかしそこに他者は無関係である。

それでも尚、行政!である我々が「ふるさと教育」を重要視するのであれば、少なくとも、

「ふるさと」とは、集合的な感性によって無条件に形成されるものではなく、個々人の感受性や感覚=主観によって「創られる」ものであることをまず肝に銘じた方がいい訳です。

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先に述べたように「ふるさと」「郷土」を構成する要素が多義的・複層的である以上、例えば地域の「歴史」学習が子どもにとって「ふるさと」を意識させ定着させるとは言い切れない。「自然環境」も同様である。むしろ逆の場合もあるだろう。また、一般的には良い意味で使用される地縁や血縁、友人を介した人間関係が「ふるさと」を肯定的に意味するとは必ずしも限らない。

繰り返しになるが、小中学校の子どもたちにとって「ふるさと」「郷土」とは、彼らの「主観」によって成り立っている面が大きい。
※この点、和辻哲郎の『風土』や魯迅の『故郷』は参照すべきだが視点や環境が異なる。

そうであるならば、「ふるさと教育」について対象の多様性・子どもの自主性・主体性を重視するのが重要になってくるの言うまでもない。

キーワードは、子ども個人の主体性による「ふるさと」の(再)発見である。

※次回は、「ふるさと教育」がもたらすデメリット、現代社会の特色である「移動」概念も交えながら、「ふるさと」あるいは「地域」ナショナリズムについて論じたいと思います。


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