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#67 見えがくれする都市

"見えがくれする都市"を読了。
都市論を学ぼうと思い、今度はこちらの本をチョイス。
東京という都市について民俗学などの観点から分析されている内容で非常に面白かった!
「中心-区画」↔︎「奥-包む」という対立構造で都内のそれぞれのまちについて事例を取り上げながら解説している内容。
本書の中で特に印象に残ったのは下記の3点。

  • 日本人は、見えないところに「奥」を見、また感じ取ってきたのと同様に、日本人の領域感覚の中で「すき間」は、全体構成の中で積極的な意味が絶えず賦与されてきた。

  • フィレンツェが理念を都市において具現化するのに対し、江戸の町は庭づくりや城づくりに裏打ちされた空間感覚をもとに、作法や約束事によって風景を作っていくという傾向が強いように思う。幕府権力者の強固な意思によったというよりは、集団の意思-共同規範にとって長い時間をかけながら形成されたように感じられるのである。

  • 「中心-区画」に対して「奥-包む」は際立った日本的な領域構築の対概念であるように思える。

日本らしい街づくり/体験づくりをしていくとしたら必須の本だと思った。
良書だった!

以下、学びメモ。

ーーーーー
・★自由に枝道を領域の内部に侵食させていく方法を持つ日本の都市は、道と街区の関係を重要視しなかったと言えるのではないだろうか。加えて、「枝分かれ道」は区画するというよりも「包む」という概念に近く、その中で枝道は、ある極めて曖昧な周縁性を持った領域に到達している、末端神経的なものに相似しているとみるべきであろう。★
・★日本人は、見えないところに「奥」を見、また感じ取ってきたのと同様に、日本人の領域感覚の中で「すき間」は、全体構成の中で積極的な意味が絶えず賦与されてきた。★
→この「すき間」が意味をもつという感覚は、碁の布石における石と石との間に意味のある「すき間」を見出すのと似ているとも言えよう。
・江戸は3つの発展過程に分けられる:
①第一期は江戸の建設期であり、城下町としての基盤整備が進められ、日本橋を中心とする商業地や江戸城を取りまいて位置する武家地が作られる時期である。この時の市街地は現在でも商業・業務活動の中心地である。
②第二期は明暦の大火から、吉宗の治世の開始まで(1716年)とされ、「大江戸の完成」期と位置付けられる。江戸の6割を焼失した明暦大火後、防災的な見地から大規模な都市改造が行われると同時に、市街地開発が隅田川を超えた地域にも進むなど、「江戸は単に武蔵一国の城下町ではなくなりここにメトロポリスが出現」することになった
③第三期はスプロールの段階である。計画的に市街地が作られていく段階を過ぎ、既成市街地内部での密度の増加を伴いながら周辺地域へのスプロールが進んだ時期である。
・★中心という観念が希薄で、全体を一つのシステム統御するのでなくその場その場に適合する解として陣取り式に空間が埋められていく。その陣取りの陣と陣の隙間、ある場合は1つの陣も街路の網目から抜け落ちて非都市的な場所、自然、緑となっている。★
→西欧では宇宙的秩序の反映としてのグリッドパターンも江戸では陣の1つにすぎない。また、計画的な操作の及ばなかった市街地では、農村に見られる道の構造がそのまま写しとられている。
・江戸の町は町名があっても地番がない。しかも各地に散在する広大な武家屋敷や寺社地は、町名すら持たないために、坂は格好の地理的目標点であった。
・★フィレンツェが理念を都市において具現化するのに対し、江戸の町は庭づくりや城づくりに裏打ちされた空間感覚をもとに、作法や約束事によって風景を作っていくという傾向が強いように思う。幕府権力者の強固な意思によったというよりは、集団の意思-共同規範にとって長い時間をかけながら形成されたように感じられるのである。★
・山は単に基準点としての目印に留まらず、神体山として信仰の対象でもあった。従って丘の高みに自社が建ち、谷あいの低地に町が作られる構成が一般的であった。そして都市の中でも人によって管理されない自然を残してきたのである。
→★それらは窺い知れない闇の部分であり、深い緑の中に空間の無限の奥行きを感じ取った。そして、それが故に奥へと誘い込む経路的なヒエラルキーを持つ空間構成を生み出したのだ。★
・日本の住宅地の4類型:
①お屋敷型
②郊外住宅型
③町家型
④裏長屋型
→★この4つの型が1つの町に同時に存在すること、及びこの図式の右上(お屋敷型)から左下(裏長屋型)へ斜めの意味的な第三の軸(社会的イメージ〜近隣関係)が存在することは、近世から今日に至る日本の特殊な状況である。★
・日本のまちの表層や建築に使われる面が物理的特性として「薄い」だけでなく、面を構成する要素の形態的関係の効果、つまり造形表現のレベルでも「薄さ」が強調される。
→★日本のまちの表層はイタリアの中世都市の表層と異なって街路空間の空気を閉じ込めない。日本人は空気がゆっくり流動するような物と物の関係を好んできた。★
・★空間のひだの重要性は、日本においてのみ発見しうる最も特徴的な数少ない現象の一つである。★
→このような、先に”玉ねぎ”と称した濃密な空間形成の芯とも称すべきところに日本人は常に奥を想定していたと感じる。そして奥という概念を設置することによって比較的狭小の空間をも深化させることを可能にしてきた。
・我々の祖先は山の頂に「絶対性」を認めなかった。深山は距離を置いて見るものであったし、身近な山にも先に述べた山と里という関係において座を与えている。山の頂ではなく山の奥に原点を見る思想の相違がはっきりと現れている。
→だから、西洋において中心思想が(山の頂が)都市に、寺院に、塔に反復されたように、我が国では山が古墳に、庭園に反復されながら、それは常に中心性でなく、奥性を照射することになる。
・★「中心-区画」に対して「奥-包む」は際立った日本的な領域構築の対概念であるように思える。★
・都市の近代化、高度化の状況下において、再び都市の空間に奥性を付与すべく、利用しうる古い、あるいは新しい空間言語と技術を使ってその再生を試みることができれば、日本の都市らしさは持続し続けるであろう。

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