倍速視聴が引き起こす感情
はじめに
前回、倍速視聴の理由のひとつとして「コミュニケーションの輪から外れる不安」を挙げました。今回は倍速視聴の弊害について考えてみます。
そのために「倍速視聴」で何が起こっているか掘り下げてみます。先回りして結論を伝えておくと、害か益かについては述べません。一般的な答えがあるとは思えないうえに、私自身どちらでもよいと考えているからです。
失われるもの
まず体感する印象が変わります。等速再生であれば感じられたはずのものが感じられなくなってしまいます。
これは想像しやすいのではないでしょうか。たとえば、涙に耐えるシーンがあっという間に終わってしまっては、その理由に思いを巡らせる時間がなくなってしまいます。
付け足されるもの
逆に、等速再生では生まれ得ない印象が付与されてしまうこともあります。このことはゲーム研究者・美学者のまつながさんが指摘しています。
余談ですが、一青窈の「もらい泣き」の再生速度を落とすと平井堅が歌っているように聴こえるというネタを思い出します。今のYouTubeでは再生速度を下げてもピッチ(音高)が維持されるので、そんなことにはなりませんでしたが。
(美学的ではないので)「倍速の美学 -9bit」の議論では問題として扱っていないのですが、作品と人の組み合わせによっては倍速再生の方が満足度が高くなることもあるようです。
似たような感想で、テレビで見る分にはおもしろいかもしれないけれど、わざわざ映画館に行ってお金払ってまで見るほどではなかったと思ったことがあります。
等速と等価
倍速視聴(厳密には非等速視聴)したとしても、等速視聴でどんな感想を持つか予測できればよいとする考え方もあります。
たしかに倍速視聴で失われたもの・付与されたものがない状態を逆算することができれば、問題はないのかもしれません。ただ、自分には難しいと思います。倍速視聴派でこれができているという方がいらしたら、お話を聞いてみたいです。
すれ違う意図
倍速再生で起こることを見てきました。ここで目的の「コミュニケーションの輪から外れるかもしれない不安」の解消に立ち返ります。
そのために倍速視聴についてこんなに真剣に考えないといけないのでしょうか? 等速視聴して真剣に鑑賞しないといけないのでしょうか?
そうしてほしいと願う制作者は多いでしょう。
ですが、話題の作品について軽く触れられれば十分なんですよ?
おわりに
最後まで読んでくださりありがとうございました。今回、倍速視聴で何が起こっているか改めて考えてみました。次回は、視聴者の目的と制作者の意図のすれ違いについて考えてみたいと思います。
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