作者の表現欲求と視聴者のコミュニケーション欲求
はじめに
「倍速視聴が引き起こす感情」で、失われてしまう感情や逆に付け足されてしまう感情について書きました。そして最後に〈回復可能な鑑賞〉の考え方を紹介しました。
〈回復可能な鑑賞〉では、作者の意図した方法での鑑賞と同じ感想を持てるかどうか問題にしています。今回は意図に注目して、作者と視聴者のすれ違いについて書いてみます。
それぞれの意図
作者は、等速視聴を意図していることでしょう。そのとき効果が最大になるように制作しているはずです。中には1作品見る時間があるなら倍速視聴で2作品見て欲しいという人もいるかもしれませんが、それなら倍速視聴する視聴者とすれ違いは生じません。ここでは措いておきましょう。
一方で視聴者は何を意図しているでしょうか? 視聴者によると思いますが、今は「倍速視聴を促すのはコミュニケーションの輪から外れる不安という仮説」を考えています。従って、倍速視聴しても等速視聴した人のコミュニケーションの輪に入れるかどうかが関心になるでしょう。入れないと不安が解消されません。
倍速視聴しても等速視聴した人とのコミュニケーションは可能でしょう。結末に至るまでの展開はわかりますし、一部でも共有できるシーンについて話すこともできます(日常会話で物語全体の構成に言及することは稀でしょうし)。最近は映像や間での表現だけでなくセリフでも説明されることが増えているそうなので、倍速視聴で失われる部分が減っているのかもしれません。余談ですが、セリフでの説明が増えたのは、視聴経験の多様化により映像・間の表現文法が共有されなくなったからだと考えています。
すれ違い以前
作者と視聴者はすれ違ってすらいなかったのかもしれません。作者は視聴者に向かって作品を発表していますが、視聴者が向いているのは別の視聴者でした。視線は画面を向いていますが、最大の関心事は直接のコミュニケーション相手です。このすれ違いは今に始まったことではありません。
今も同じ構造が見て取れます。乗っているのが、YouTubeを見ながらLINEをしているグループだとか、ニコニコ動画を見ながらTwitterをしているクラスタだとかに変わりはしましたが(ちなみに私は後者です)。
ここで気に留めておきたいのは、作者側も視聴者どうしのコミュニケーションを少なからず意図しているはずだという点です。「口コミ」「バズ」「バイラル」、いろいろな表現がありますが視聴者どうしのコミュニケーションはマーケティング手段の一つに織り込まれています。視聴者が作品自体だけに目を向けていてもそれはそれで不都合が生じるのです。
おわりに
最後まで読んでくださりありがとうございます。今回は作者と視聴者のすれ違いについて書いてみました。次回は、視聴者どうしが何を語っているか考えたいと思います。
作者が視聴者に語るための作品は誰でも見ることができるのに比べて、視聴者どうしのやりとりは私的な性格が強いため難しそうですが、想像を巡らせてみます。
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※ヘッダ画像はBing Image Creatorで生成
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