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Ⅲ 新たな光

彼女が部屋に来るようになって一ヶ月がたったころ、わたしの部屋に突然の来訪者があった。

こんこん、と迷いが感じられるノックの音、部屋着のまま慌てて転がり出ると、青年が所在なさげにドアの前に立っていた。

「あっすみません…ある人からここにいると言われて待ち合わせしてたんですけど…隣駅の、大学の者なんですが」

隣駅の大学は、弟の通っている大学だった。
自分がいない時にこの部屋を待ち合わせにするなんて突拍子もないことを考えるのは、彼女しかいない、というのは過ごした一ヶ月でなんとなく分かる。

「今いないですけど…中で待たれますか」

今考えれば弟と同じ大学であるということと、彼女の知り合いであるだろうという推測だけで知らない男性を自分の部屋にあげるのはとても危険なことだった。わたしはこのころ考えるのにとても疲れて、判断力も鈍っていた。

しかしそれだけでなく、青年が纏うどこか不器用そうな空気感が、わたしに大丈夫だ、と直感させていた。

「はあ、よく考えたら連絡先も聞いていなくて…すこし待たせていただいてもよろしいですか」

青年はぼそぼそとつぶやき、わたしの後に続いて恐縮した様子で部屋に入ってきた。
そして所在なさげにきょろきょろと辺りを見回す。その様子があまりにも心許なさそうだったので、わたしは思わず笑ってしまった。

「ごめんなさい、散らかってて。その辺りに座ってください。」

彼女がきた時と同じようにお湯を沸かし、紅茶の葉を準備する。そういえば知り合って一ヶ月以上になるというのに、わたしも彼女と連絡を取る術を持たなかった。

「今ちょっと考えてみたんですけど、わたしも連絡先をしらないかも」

キッチン越しに声をかけると、何故か青年が申し訳なさそうに目を伏せる。

「そういう人なんです、あの人は…今日も一方的に住所を言われて、ここにくるようにって、知り合いの身で彼女の家に行くのさえ抵抗あったのに、まさか同居されている方がいるなんて…」

なるほど、ここまで聞かされていないとは青年の方が気の毒だ。彼女は悪意なく周りの空気を自分のものにし、ぐいぐいと引っ張って行く。きっとこの不器用そうな青年も、彼女のそのようなところに引っ張られてここへ来たのだろう。

「実を言うとここはわたしの家なんです。彼女は最近ここへ出入りするようになって」

「えっそうなんですか?てっきり僕は彼女の家だと…人の家の住所を教えてしまうなんて、しかも当の本人はいないなんて、なんて人なんだあの人は…」

青年が心底驚いたような顔で目を見開く。その様子がおかしくて、そんな状況ではないのに、わたしはまたくすくすと笑ってしまった。
青年が恥ずかしそうに顔を赤らめ、紅茶のカップに目を落とす。

「申し遅れましたが、私は大学の助教授をやっております。彼女とは教授とゼミが一緒で、知り合いになったんです。」

「そうなんですか…正直いうと、彼女はいつもふらりとここに現れるので…今日せっかく来ていただいたんですが、会えないかも知れません」

「いえ、勝手に押しかけたのはこっちなので、お構いなく。紅茶をいただいたら帰ります。彼女には強く言っておきます。図々しく上がりこんですみません。」

どうも彼女に強い口調で叱りつける青年の姿がまったく想像できず、逆にやり込められそうな姿まで浮かんできて、わたしはまた笑いそうになり、必死になってこらえた。この湧き上がるような感覚は、弟の死後、久しぶりのことだった。

陽の光がカーテン越しに角度を変えて差し込み、それが青年の顔に影をつくる。青年はふとカップの縁から顔を上げ、わたしの顔を見た。

「失礼を承知で申し上げるんですが、あなたは僕の、知り合いの血縁の方ではないかと思うんです。」

私ははっとして顔を上げ、青年の顔をまじまじとみた。彼女の共通の知り合いで、弟の大学の者と言われれば、それは弟のことに違いない。
しかし、大人になってから私たちの共通点は、ほとんどないに等しいと言ってよかった。ほとんど見ていなかったが、葬式の場にこの男がいただろうか?それとも彼女から聞いたのだろうか。

「おそらく先月亡くなったわたしの弟のことでしょうか?」
「そうです、ああやっぱり。どこか雰囲気が似ていると思った。」

青年はどこかほっとしたようにわたしに笑いかける。

「すみません、もしお葬式でお会いしていたら…あの時は本当にばたばたしていて…ひとりひとりご挨拶できればよかったんですが」

「いえ、僕は実は行けなかったんです、教授が出席するっていうんで、仕事を任されてしまって。この度は御愁傷様でございました」

青年が深々と頭を下げたため、わたしも慌てて「恐れ入ります」と頭を下げた。

「雰囲気似てますか、あまり言われたことがないんですけど…」

「いえ、僕直感がよく働くって言われるんです。」

知り合いの血縁者ということで緊張がほぐれたのだろう、青年はやっと人懐こい表情でにっこりと笑った。彼女とはまた違った、人が嫌いになれない要素を纏った男だと感じた。

青年はすっかり冷めたカップの紅茶を一気に飲み干すと、鞄をごそごそと探り、よれよれの名刺を取り出した。

「そろそろ僕、お暇します。よかったらこれ、僕の所属している研究室なんですが…お姉さんのお家だと申し訳ないので、是非遊びに来てください。お姉さんにお見せしたいものがあるんです」

青年の顔には今まで見せていた不器用さが嘘のような、揺るがない決意の現れた表情で、わたしをしっかり見つめていた。あまりにもまっすぐに見つめられたのでわたしは困惑して名刺に目を落とした。外の子どもの無邪気な声、家の中の冷蔵庫の音、そういった何気ない音が遠くに聞こえる。

「分かりました。都合のつきそうな時に、ご連絡します。」

青年は頷くと玄関の方へ歩いて行き、静かに外へ出て行った。彼女はついに来なかった。

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