此程可哀そうなのに誰も同情しない(強い女像について)
https://twitter.com/totemo_iikodesu/status/1660948891163033601より引用
これは中々に興味深いtweetだと思いますので少し考えてみます。
当世のいわゆる「強い女」。
よく言えば自立する強さなんですけど、どっちかというと何かを捨てられること、拒絶できることが強さ、と言う感じなんですよね。
上のtweetでもそうですし、下のこれもそうです。
自分のためだけに生きる。
なにかを強いられそうになったらそれを拒絶できる。それが強さである。
これをもっと端的に言うと
ケア役をしないこと
が女性の強さ。そんな感じ。
面倒事は拒絶する。
自分より弱いものや負荷になる者を拒絶する。
自分は好きに振舞う。
それをやっても文句言われないように強くなれ。
……まあ、それも一つの強さの形だとは思います。
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ただ、その強さは
指導者には全然適性がありません。
もしこの「強い女」像が歴史的なものであるのなら、母系社会が存続せず、女王が極めて稀だったのも納得がいきます。
差別的な男尊女卑社会や後進的な家父長制が優れた女の頭を押さえつけていたから、ではなく、単に指導者の資質を持つ女性がいなかったというだけです。
リーダー、指導者、王、管理職、なんでもいいんですけど。
人の上に立つ者に最も重要な資質は、
寛容さ
です。包容力とかでもいいですけど。
ていうか、指導的な立場に上ってくるような人間にとっては、能力なんてあって当然なんですよね。
弱い構成員を包摂できる寛容さがないリーダーの組織は絶対に機能しません。
なぜなら人間の能力には個人差があるからです。
有能な者もいれば、そうでないものもいる。勤勉な者もいれば怠け者もいる。
平均的なものもいれば、ある一部にだけ優れた能力を示す者もいる。
時には自分より優秀な能力を持つものを指揮するときだってあり得る。
指導者にはそういう様々な人間を纏める資質が求められます。
旗下にいるすべてを束ねなくては集団は機能しません。
それに集団の指導的地位につけば、自分の意見を通せないことも多々あります。
自立する強さは、個人主義的な意味では強いかもしれませんが、組織の指導者としての強さを意味しません。
この、捨てる強さ、拒絶する強さ、個人の強さを以て指導者になれる集団は、その指導者に匹敵する能力で構成された少数のエリート集団とかでしょうか。
あとは、その指導者が途轍もないカリスマで、どんな仕打ちを受けても周りがそれに従うとかかな。
その位しか思いつかない。
もちろん拒絶することが強さ也、というのは女性だけのものではありません。こういう性質を持つ男性も勿論います。
ただし、男性の強さとしては一般的に認められないでしょうね。
上のtweetの男と女を入れ替えれば分かりますけど
「男よ強くなれ、いつでも女を捨てられるような強い男であれ、女に遠慮なんてすんな」
なんて書いたら大炎上必至。
それに、それを強い男と思う人はいないでしょう。
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この「強い女」像、僕は割と最近になって形成されたものだと思っています。
というのは、この「強さとは余計なものを捨てること、拒絶すること」というのは
被害者意識に根差している
からです。
女性の性的な本能として弱いものを包摂しない傾向はあったとしても、この「私たちはケア役割を強いられていたんだ!」という被害者意識をブーストさせたのは現代のフェミニズムやポリコレの影響が大きい、と僕は思います。
https://twitter.com/terrakei07/status/1661748627365314565より引用)
ただ、少し考えてみれば分かるんですけど。
女性が歴史的にケア役割を強いられていた時、男は包摂する役割を強いれれていたわけです。
自分達だけが不当に意に沿わない役割を押し付けられた被害者だ、と言う世界観は
想像力に欠けていると言わざるを得ません。
女が家庭に閉じ込められてケア役割を押し付けられている間に、男は仕事で自己実現してきた、なんてことをいう人も居ます。
しかし、仕事で自己実現できる人、自分の能力とフィットした仕事に就き能力を活かせた、なんて恐らくほんの一握りの能力と運に恵まれた人だけですよ。
仕事をしている男性のほとんどは、生きるため、家族を養うため、ひいては包摂するという役割を果たすために仕事をしている。
例えばしんどい営業とかしてる人がみんな自己実現のために仕事してると思ってるんですか?
まあ上澄みだけしか視界に入ってないんでしょうけど。
……まじで仕事に遊びにくつろぐ男とか思ってそう
颯爽とスーツ姿で働くエリート管理職とかは自己実現しているように見えるかもしれません。
しかし、そう言う人は確かに高い報酬と地位を得ていますが、その対価として過酷な競争に晒されてますし重責をおっています。
それに管理職になれば人を率いる立場です。
無能な部下を押し付けるな!と切り捨てるなんてことは許されないし、誰の指図も受けない、なんて通用しません。
仕事柄、社長職の人と話すこともありますけど。
社長は、社員に対して色々不満をあれども、彼らの生活に責任を負い、その社員からは基本的には不満を言われ、業績の浮き沈みに一喜一憂する、超絶激務ですよ。
足手まといの他者を切り捨てる、やりたくないことを拒絶するなんて人には絶対に務まりません。
僕はやりたくないです。例え報酬が相応であっても。
なんかクオーター制とか言って男女の管理職比を半々にせよ、ジェンダーァァァァギャップゥゥ!!とか言う進歩的な人を多数見かけますけど。
この手の人たちって、報酬とか肩書とかだけしか見えてなくて
このきつい部分が全く想像の埒外になってますよね。
個人的には管理職は強制的に男女半々にして、責任も負わせればいいと思ってますけどね。
泣き言抜かしてもドロップアウトはさせない。管理職の希望者が居なければ強制徴用。
これも先進的な社会のためやで。
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あと、この「強さ」の根底には
甘えがある
と思います。
誰かを捨てる、拒絶する強さを持ち、自分の強さで好きに生きる、というのを実践してきた人が、仮に窮地に陥った場合を考えてください。
それは絶対にありえます。世界一に能力が高い人であってもあり得ます。
自分より劣るものを切り捨ててきた人が周囲の助力を得られるでしょうか?
……普通は無理でしょう。
強さとは捨てること、拒絶すること、ということをしてきた人は、弱くなれば捨てられます。自分がしてきたように。
なので少し考えれば分かるんですけど、この「強さ」とその実践は極めて危うい代物なのです。
にもかかわらず、これの行動を「強い」と考えれるのは、いざとなれば誰かが自分を助けてくれるはずだ、という甘っちょろい発想を無自覚に内面化しているからではないか、と僕は思います。
そうなったら……ただ死ぬまでさ、というアカギみたいな覚悟をしてる人は尊敬します。
そう言う人は確かに「強い」。
僕自身は
想像力がないだけ
だと思ってますけどね(三回目
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