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わたしたちは「何者か」になれるのか?~Day 1 問題提起~

新学習指導要領の目指すものとは?

 私は北海道室蘭市で、個人塾「共生舎」を開業し、現在6年目を迎えています。私の教室では、小学生から高校生、専門学校生、そして一般の方と、あらゆる受講生さんが所属しており、それぞれのニーズにできるだけ柔軟に対応するよう心がけております。

 2016年の開業時にはすでに、私は、新しい学習指導要領が「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、「生きる力」を育むことに力を入れることを見越していました。

 そして、このコロナ禍も相まって、新しい教育は、ICTの駆使等による学びが推進されるというイメージが定着し始めているように感じます。私の教室のある室蘭でも、来年度からはICT導入が本格化するとのことです。

 しかし、教室に来る塾生たちの様子や、塾生たちから教えてもらう学校での学生たちの様子からは、ICTへの感度はおろか、「主体的・対話的で深い学び」への移行について、あまり熱量は感じられないように思います。

 また、新しい学習指導要領で目指す「生きる力」には、

変化の激しいこれからの社会を生きるために、
確かな学力 、豊かな人間性、健康・体力の知・徳・体を
バランスよく育てることが大切です

 とあります。

 しかし、現場の先生の生の声を聞くと、日々の業務に忙殺され、それどころではないというのが、正直なところのようです。

 また、その「生きる力」を具体的に表すと、

● 基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、
 表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する力
● 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や
 感動する心などの豊かな人間性
● たくましく生きるための健康や体力 など

 と定められています。

「受け身」姿勢と自発的な「何者か」

 他方、誰もがSNSや動画配信などのツールを使い、「当たれば」、「何者か」としての「個」が公に認められることになります。そして、私たちは多かれ少なかれ、そういった人たちの発信することに影響を受けて生きていくことになります。

 新しい学習指導要領の狙いが「受け身」から「自発」であるとすれば、みんなが「何者か」としての「個」を認められなければならない、ということに行き着くでしょう。しかし、そういった教育を受けていない子どもたちが、いきなり「さあ、自由闊達に意見を交換しましょう」と言われて、全員が良好なコミュニケーションの中で意見交換、話の組み立てをしていけるでしょうか?

 また、もうすでに多くの子どもたちが、有名配信者等のことを、「エンターテイメントの向こう側」「偶像」と理解しているように感じられます。しかし、有名配信者等も、かつては「こちら側」「実像」だったのです。

 たしかに、これはテレビの世界と実社会との関係と、構造的には何ら変わらないものでしょうから、何を今更?というお話でもあるかもしれません。

 しかし、決定的に違うのは、それが自分の手のひらの上で、見ようと思えばいつでも見られるようになったということです。そしてそれはつまり、「受け身」であるだけの自分を、浮き彫りにしてしまっているということにならないでしょうか?

新要領を絵に描いた餅にしないために

 そのような状況だからこそ、別に有名にならなくとも「発信する」「何者か」としての「個」を育む、そしてそれを「調整する」能力を養う新要領の狙いは良いと思います。

 しかし、こういったお話になるときに必ず考えられるのは、問題点と解決策のミスマッチです。

 どうしたら、「受け身」と「発信」を使い分けられるのか?

 「発信」する「何者か」になるには、何が足りていないのか?

 日々子供たちと接して、また、自分自身もいち経営者として日々学び、実践し続ける立場として、これらの問いが常に頭を駆け巡っています。

 このシリーズ“私たちは「何者か」になれるのか?”は、新学習指導要領の実施に伴い、忘れてはいけないだろうことを、書き連ねていきたいと思います。

 ※本稿は、共生舎5周年記念事業の一環として連載してまいります。
  本稿が、教育、育児に携わる全ての方の心に寄り添い、
  一条の光とならんことを願います。

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