学びにも多様性を 2
世界のつながりと隔たり
オンライン教育がかつてないほど盛んになり、これからますますそれが普及してくることになるでしょう。利便性が増す一方、手を打たなければならないことも多々あることと思います。
画面の向こう側で、本当に学ぶ姿勢でいられるのか。
画面の向こう側で、いたずらをしていないのか。
などといった消極的な懸念から、
画面の向こう側で、どんな問題やテーマに直面すれば、どんな反応をするのか。
画面の向こう側で、どんな風に悩んで手を止めているのか。
などといった、前向きな心配まで。
インターネットを介してつながっている先生と生徒。
しかし、生の人間同士の「空気感」は、やはり伝わるには限りがあり。
コミュニティと自分の立ち位置と
2021年春、コロナ禍の休校中、私の教室でも意識調査を兼ね、「学校の意義」というディスカッションを行ったことがあります。塾生たちも学校の存在意義をとても重要なものとして捉えていて、その理由として一番大きなウエイトを占めたのが、「教科書などで教わらないもの」でした。
先生や職員さんなどの「大人」との関わり方。
学生同士の関わり方。
集団生活と自己のあり方。
闊達な議論の中で、私は、やはり子供にとって「学校」という存在は、とても大きなものであるということを再認識しました。
他方、休校が長引くにつれ、その「学校」に行く気力がなくなってくるということも、直面した事実のひとつでもありました。
昔からそうかも知れませんが、子供が所属するコミュニティとは、とても限定的なものです。学生自身の願望と家庭の育て方との適合がなければ、そのコミュニティを広げることは困難なものになるでしょう。
コロナ禍に限った話ではありませんが、最近では、学校に行くことが全てではない、という考え方も、少しずつ市民権を得てきています。そしてそれは、学校と生徒とのそれぞれの立場を見直す機会であるともいえるでしょう。
ただ、「学校に行かない」という選択肢を選んだとて、子供の心情としては「全て解決」というわけでもないのも事実でしょう。大多数の中で調和をとるように育てられてきた人にとって、そこに「行かない」という決心の裏に、その「調和から外れる」という不安感があるのではないでしょうか。
ここに、コミュニティとそれに対する自己の立ち位置について、子供の話を身近な大人がしっかりと耳を傾け、一緒に考えることの大切さがあると思います。
自分の見える世界が全てではない
大人たちこそ、このことを忘れてはならないのではないでしょうか。
いまでいう「不登校」は、登校拒否やサボりという言葉で片付けられてしまっていました。「ゆとり教育」は、非常識な大人を量産したのでは、という話も耳にします。
何を隠そう、私もいわゆる「ゆとり教育」の入り口の年代であり、学校に行きたくない日が月単位で続いたこともありました。
そんなこと、当事者の問題だから、当事者がどうにかしなければならない。
という見方だって、できなくはないのかもしれません。
しかし、私は、そういう論調に、どうも心を痛めてしまいます。
そういった自己責任論には、一理あるのも否めませんし、実際、あとは本人の問題だという次元まで、自分の限界を超えて手を尽くしてきたことだってあります。
でも、自分もそうやって、たくさんの方に助けていただき、今があると思っています。
見える世界を広げて、選択肢を増やすこと。
このことを意識して、学びに関わることのできる大人が増えるよう、微力ながらも頑張っていきたいと思います。
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