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「図書館」から始まったわらしべ読書(2)

 前回はマハトマ・ガンディーと二人のチャンドラ・ボースの話を載せたが、今回もその続きである。
 コロナ禍でなかなか友達と会うことができないでいるので、ある飲み友にスマホで「インド人でボースと言ったら誰を思い浮かべる?」と聞いたら「そりゃー ボース粒子のボースだろ」と答えてきた。彼は物理屋なのだ。
友が言ったボースは、量子力学の分野で高名な人だそうだ。彼は話し相手に飢えていたと見え、待ってましたとばかり、ボース粒子はボソンとも言うとか『ボース=アインシュタイン統計』やら『ボース=アインシュタイン凝縮』などという語を並べ立ててボースとアインシュタインの業績を説明する。私は閉口して途中で遮り「他にボースという名で知ってる人はいない?」と聞くと、やはり前回記した二人のチャンドラ・ボースを、独立運動の英雄は革命家としての名前だけを、科学者の方は電磁波研究や無線電信の件で知っているという。植物生理学については知らなかった。「もう一人、日本や日本人に大きな関係があったボースという名のインド人がいるのを知らない?」と雑学を誇る彼に聞いてみた。「ヒントくれ」というので「逃亡・新宿・恋と革命のカレー味」と答えると「なんじゃそれ。三題噺か。オレの知らない世界だな」。

 アインシュタインを感嘆させた量子力学のボースはサティエンドラ・ナート・ボースと言うそうだが、今度のボースはラス・ビハリ・ボースという名である。
 こちらのボースさんも、英国植民地下のインドで急進的反英運動の指導者として活動し、賞金付きのお尋ね者の身となって逃走を繰り返しながら日本へ亡命、その潜伏先の女性と結婚してついには日本に帰化した人だ。この人物こそ革命家の方のスバス・チャンドラ・ボースに自分の運動の跡を継がせたインド独立運動急進派の先駆者の一人である。(もっとも今では日本に初めて本格的なインドカリー(カレー)をもたらした人としてして知られてもいる)。
 インドの詩聖と言われるタゴールの親戚の名を騙って日本に亡命してきたラス・ビハリ・ボースは、日本滞在中の中国の革命家・孫文に会い、肝胆相照らす仲になったという。やがて正体がばれてしまったお尋ね者ボースは、身の危険を感じて孫文に相談したところ、頭山満(とうやまみつる)を紹介される。頭山は、幻洋社・黒龍会などの主宰や顧問となったりした右翼の巨頭とされる人物だ。はじめは板垣退助や植木枝盛らとともに自由民権家の運動に参加していた。だが後に民権から国家主義・天皇主義へと大きくかじをきり、アジア主義のナショナリストとして大きな存在になる。

 その頭山や玄洋社などの面々が、国外退去命令が出されたボースらインドの革命家を救うべく奔走し、とうとう退去期限前日にボースと仲間のラール・グプタ―を変装させて、官憲の見張る頭山邸から連れ出し、東京新宿のパン店「中村屋」へと移送して匿った。このあたりの逃走劇は中島岳志の『中村屋のボース』(白水社)に詳しい。この本は「インド独立運動と近代日本のアジア主義」の副題をもち、ボースの生涯や関連する人々、当時の社会状況などが精密に描かれ、論考が加えられている。

 ボースはグプタ―と共に中村屋の創業者である相馬夫妻らの保護を受けつつ過ごしていたが、グプタ―がそこから旧知の大川周明(この人物もアジア主義の大物の一人だ)宅へと逃げ込んだので、ボースも中村屋を出ざるをえなくなった。そして転々と居場所を変え、その逃走中に中村屋・相馬家の長女・俊子と結婚するなど様々なモノガタリがあるのだが、それを紹介するのがこの記述の目的ではない。


 ともかくこのボース氏は、日英の国際関係の変化から国外退去命令が解除された後、日本に帰化し、日本でインド独立運動を推し進めた。だが、イギリスから独立を果たした祖国を見ることなく、1945年(昭和20年)、すなわち日本の敗戦で第2次世界大戦が終結する年の1月に亡くなった。同じ年の6月にはボースと俊子の長男も沖縄で戦死した。さらにこのボース氏の後継者ともいえるあのスバス・チャンドラ・ボースが飛行機事故で亡くなったのも8月の、それも終戦の三日後であった。

 さて、ここまで図書館のガンディー像からインドのボースたちに触れてきたが、実はラス・ビハリ・ボースを匿った新宿・中村屋の相馬夫妻のことが、私にとっては興味の本番となったのだ。相馬愛蔵と国光(こっこう、本名は良)夫妻の生き様と、文化サロンの形成のようなその広い人脈である。明治、大正、昭和と続いたなかで、その文学史、美術史、教育史など広範囲にそれぞれの名をのこした人々が次から次へと関連付けられ、その人たちを、書物を中心に辿っていくと、時代を超えた旅をしている気持になる。コロナ禍の今、実際の旅にも出かけられない、息の詰まるような状況を、図書館を利用してこんな書物の旅をしてみた。そしてそれは、お金もかからず、時空を超え、何と贅沢な旅ではなかろうかと、勝手に思い込んでいる。


 さらに、例えばインドのボースたちのことから、日本とインドとイギリスの時代時代による関わり方の変化や、戦前の日本のアジア主義とはいったい何だったのだろうか、そしてそれは現代にどう影響しているのか、などと考えが及んだりして、その時間だけこの息苦しさを忘れさせてくれる。

 そんなわけで、私は今、臼井吉見の大作『安曇野』を読んでいる。相馬夫妻や碌山美術館の彫刻家・荻原守衛、社会運動家そして作家の木下尚江などを主要人物に、明治から昭和にかけての社会や文化・思想の断片を見事に活写するこの大河小説(文庫で第1部から5部まで5冊あり、表紙は先ごろ亡くなった安野光雅の絵で碌山美術館の建物などが載せられている)の読了後、そこに出てくる人物や事件のうち、強い興味をもったものを、一つ一つ辿り考えていく旅を続けていこうと思っている。それはまた、かって槍や穂高など北アルプスを歩き回り、その山麓の安曇野にも何回も訪れた若い時のあれこれを思い出しながら辿る旅ともなっている。コロナで仕事も少なくなり生活の不安を抱えてはいるが、当分は暇を持て余すことはなさそうだ。

 なお、前回はじめに記した杉並区の中央図書館と「アンネのバラと中学校」や「原水爆禁止運動」のことにも触れておこう。


 この図書館に「アンネの日記」の著者アンネフランクゆかりのバラがある。
2013、14年に東京都の公立図書館や書店で『アンネの日記』やその関連書物が大量に引き裂かれた事件があった。特に杉並区では、13館中11館の区立図書館で121冊が破られる被害にあった。それに対し、全国から関連書物の寄贈や励ましの手紙などが送られた。それらの支援に感謝し、このような事件を風化させないという思いを込めて、「アンネのバラ」を植樹し、また「アンネ・フランクと希望のバラ」展を図書館内で開いたりした。
「アンネのバラ」とは、少女アンネ・フランクが、ユダヤ人迫害から逃れるために隠れ住んだ家の屋根裏部屋から眺めていた野バラを、ベルギーの園芸家が品種改良し「アンネ・フランクの形見」と名付けてアンネの父・オットー・フランク氏に寄贈したもの。 
 図書館に植樹されたバラは、区立高井戸中学の校庭に咲くアンネのバラから株分けされたものである。そのバラの由来を記そう。高井戸中学の生徒たちが、授業でアンネの日記を読むとともに戦争と平和についての学習に取り組み、その成果として手作り文集「暗い炎の後に」を完成させた。そして文集をオランダの「アンネ・フランク財団」と父オットー・フランク氏に贈り、さらに生徒たちは父母たちの戦争体験からの聞き書き文集「生きている戦争」をまとめた。また同時に平和のシンボルとしてアンネのバラを中学校の校庭に植え、自分たちの手で育てたいと願った。そういった生徒の願いに応えてオットー氏はアンネのバラを寄贈することを約束し、3本の「アンネ・フランクの形見」が多くの善意の人の手を経て中学校へとやってきた。贈られた3本を、中学生や卒業生、地域の人たちのサポートで140本以上に増やし、その中から図書館に株分けしたものである。下の写真はもう花の終わる寸前になってしまった昨年11月23日に撮ったもの。

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さらにこの図書館のすぐ目の前には体育館があるが、そこは公民館の跡である。かってこの公民館では各種の講座が開かれ活発に活動していたが、その一つに、当時世の中を震撼させたビキニ環礁の水爆実験についての勉強会が開かれていた。実験場近くを航行中の漁船・第五福竜丸の乗組員に死亡者が出、さらに数名が放射能被爆で後々まで苦しむなど、広島・長崎の原爆の悪夢から10年もたたずにまた被害者を出してしまった事態に「原水爆の禁止を」と女性を中心にした受講生たちは署名運動に立ち上がった。1954年のことである。

 その輪が全国に広がり、わずか3か月半で当時の日本の全人口の3分の1を超える3200万筆以上の署名を集めた。そしてこれは「日本政府の核実験への反対声明を引き出し、さらにアメリカの外交政策すらも変更させる力をも発揮した。世界にも大きな影響を与え」(小林良江氏の論文より)「国際的規模で民衆のイニシアチヴによって開催された、日本で最初の平和運動」(藤原修氏の論文より)であった。まさにここが世界的な原水爆禁止運動の発祥の地であったのだ。

 体育館の一角に、区民の学びと活動の場であった公民館の記憶を遺そうと『オーロラ』と名付けられた記念碑が建っている。制作者の瀧徹さんは「原石はポルトガル産のとても美しいピンクの大理石です。(中略)大理石は、軟らかく長い年月の間に風化するが、また磨けば光沢が戻る。オーロラは自然現象でうつくしい!美しいものが壊されていく、美しいものが原子爆弾で破壊されていく・・・という意味を込め『オーロラ』と名付けたのです」と語る。

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 非暴力・不服従の「ガンディー像」と七つの社会的大罪を刻んだ石碑、平和のシンボルとしての「アンネのバラ」、非核の願いの込められた記念の碑「オーロラ」。何気なく利用していた図書館に、掘り下げてみれば多くの人々の熱い想いがしずかに秘められているのに気づく。どれもが懸命に生きた人たちのずっしりとした重さをもって胸に迫ってくる。わらしべ長者のような金銭的な富裕とは無縁だが、何気なくつかんだものから、ひとつひとつ出合った人物や出来事を手繰り寄せてみたものは、目に見えぬ財産として私の心に蓄積されていくことを信じたい。

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