山と人 「想い」に「恋」が消えたマチガイ
私は前回掲載の「雨の初めのひとしずく」でミスをしてしまった。百瀬慎太郎の有名な言葉を違えたのである。
「山を思えば人を想い 人を想えば山想う」とやってしまったのだが、本当はこうである。
山を想へば人恋し 人を想へば山恋し
つまり私のマチガイには「想う」ばかりで「恋」がない。私に恋は無縁?そんなそんな・・・・
山好きなら誰でも知っている、といわれるほどポピュラーなフレーズを、なぜ間違えてしまったのか。
ポピュラー?そう、この言葉は広く知られている。というより、広く使われている。
山の麓の観光地などで売られる色紙やペナント、暖簾、手ぬぐいなどに刷り込まれたり、様々なお土産グッズのなかにも書かれたりしている。そうした中には作者の名が書かれていることはあまりない。あっても「慎太郎」というのが一番多く見かける。知らない人は石原慎太郎と思ってしまうのでは、とはらはらする。私の持っている白樺で作られた道標を模した飾り物には、この言葉の下になんと「石山」などと銘打っている。おそらくその土産物に百瀬の言葉を書き込んだ書家のほうの名であろう。これではまったく誤解されてしまうだろう。逆に言えば、言葉のほうの本当の作者は、まるで世間には知られていないのだ。
それにしても、これほど知れ渡っている(山愛好家との限定付きだが)言葉なのに、私は間違えた。単に記憶違いをしていたのではない。ミスはミスなのだが、これには私なりの理由がある。
それはともかく、先ずは百瀬慎太郎についてごく簡単に触れてみよう。
百瀬慎太郎は、1892年(明治25年)に長野県・今の大町市に生まれた。実家は旅館である。その対山館という旅館に、彼が生まれた翌年にウエストンが泊まっている。日本に「登山」というものの種を蒔き、日本アルプスの父といわれたイギリス人である。(今でも上高地で毎年”ウエストン祭”が開かれている)。
慎太郎は家業の旅館を継ぎ、広い交友からそこを北アルプスに挑む者たちの拠点、地方の文化サロンに発展させた。そして国内初の登山案内者組合の創設や鉢ノ木峠の入り口に山小屋を開設するなど、黎明期の日本登山界に大きな貢献を果たしている。
自らも岳人として厳冬期の立山・鉢ノ木越えに成功し、また別の年、雪の立山・鉢ノ木峠越えを伊藤孝一がドキュメント映画にするという、当時では思いもよらない壮挙に、赤沼千尋たちとともに同行している。(この「幻のフィルム」と呼ばれた無声映画を、私は池袋で観ることができた。その感激は十数年たった今でも忘れられない)。
慎太郎の交流の一端を示すものとして、対山館を拠点として山に向かった人たちの名を思いつくまま挙げてみよう。
芥川龍之介・若山牧水・竹久夢二・有島武郎・大町桂月・長谷川如是閑・川東碧梧桐・小島烏水・辻村伊助・槇有恒・中西悟堂…・・きりがない。数多くの登山家や学生たち、また文人・墨客が対山館で慎太郎と酒を酌み交わし、「大町・対山館時代」といわれる古きよき時代を作り上げていた。
また、慎太郎は若山牧水門下の歌人でもあった。瀟洒な文も遺している。
あの「山を想へば人恋し…」は、死の前年に鉢ノ木峠を回想した文中にあり、この言葉の後のほうに
「…山と人、その交錯の相(すがた)をぢっと見せつけられてきた自分だった…」とある。
さて、例の私の間違いについてである。
私はこの胸を打つ名文句を愛しながら、しかしそれが、観光地の様々なお土産グッズにけばけばしく載せられていることに、反発も感じていた。そして、なるべく自分の文にはこれを引用しないでおこうと思っていたのだ。そんな気持ちが私の心の下地にあったのと、もうひとつ、前回の記事をを書いているうちに、慎太郎の次のような言葉が思い浮かんでいたのだ。
(宿屋の主人として生きてきたことは)「…私の思い出は山であり人である。山を想うということは、それに関連して人を想うことだ…」
「山岳夜話」という戦後まもなく連載された新聞のコラムの一節で、百瀬慎太郎を知っていくうちに私の心に焼き付いていたのだ。
「山を想えば人を想う…」とは、まったく無意識に出てしまったものなのだ。そしてそれは、たしかに彼がコラムに綴った言葉でもあったのだ。
写真でしか知らない私の生まれる前の人。しかしほかのいろいろな岳人たちと同じく、とても身近に感じられる人である。
敗戦の荒廃の中で慎太郎はこう歌う。
うつし世のあらがひの姿見るに堪へず我心ひたに山によりゆく
そして国敗れて山河ありと、こうも書く。
「眺めても良い。想ふだけでもいゝ。必ずしも絶嶺に立たなくとも、山麓に、中腹に、渓谷に、森林に、其処には到る処に深い恵みが溢れてゐる。…」
対人館は昭和18年に廃業。戦争で山どころではなくなったからである。そして敗戦まもなくして、百瀬慎太郎は58歳で世を去った。
毎年、北アルプス鉢ノ木岳での山開きとして”慎太郎祭り”が行われてきた。
今年も6月に行われる予定であったがコロナ禍のため中止となった。上高地でのウエストン祭りも今年は見送られた。
半世紀以上も続けられてきたこのようなイヴェントをも新型コロナウィルスは奪ってしまったのだ。
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