成績不振と言われてしまったら
30年以上過ごした教員としての立場よりも、つい自分が生徒だった時の気持ちが浮かぶのは、やっぱり成績不振は相当ショックだったのでしょう。
とりあえず、私の経験を聞いて下さい。
中学では1時間で英語のニュープリンスという教科書が1ページ進むか進まないかで暇で暇で仕方がなかったのに、高校に入った途端、英語のリーダーは1時間で7〜8ページ進み、同じ日にグラマーか、ライティングがあってどちらも2〜3ページ進んだので、もう何が何だかという状態でした。
理科は隣に座っていた阪南中学だか文の里中学だかの出身の子が「あ、あれ中学で習ったわ。これも習ったわ」というのだけれど、私は習った覚えがなく、分からないことだらけで、愕然とした記憶があります。
数学は元からからっきしわからず、数学βについては家に電話があり、高一の夏休みに呼び出され、佐野先生という冬は三揃い、夏は紐ネクタイの怖い先生から課題をもらいました。高一の担任奥田先生が数学α担当だったので質問に行ったら「何故これが分からないのか、分かりませんねえ」と言われ、絶望していたのですが、翌年4月にその先生が大阪市立大学に教員としてご栄転あそばされたので、『聞いた相手が悪かった』と自分を慰めました。
数学と生物と2年の物理は赤点だったはずです。社会や国語や芸術が5だったのに三年間の評定平均が3.2だったと記憶していますので、理系科目は全部2だったのでしょう🥺
その頃よく見た夢は、明け方のゴツゴツした岩場の海岸で、波飛沫の飛ぶ強い風の中、暗闇から次第に紺色の空が赤く染まって行く、というものでした。
例の高一担任には、三者懇談のとき、「家庭教師でもつけたらどうですか」と言われましたが、当時は不景気で、父から「もし不渡りを出したら、夜逃げせなあかんねんで」と脅かされる始末でした。その後、経済が好転して、店は持ち直し、妹は週三で天王寺の数学塾に通いました。
というわけで、成績不振、自分一人でどうしろって言うのよ❗️と思ったものです。この時、変人の両親がどうしたかは、本題から外れるので、さて置き、どこで立ち直ったか、というと、まず英語からでした。
毎週英語の小テストがあったのですが、結構な量のページ数が指定されるだけで、どこがどう出ているのか分からず、質問に行きました。ずっと不合格で毎回再テストを受けていた私を、英語の先生は気の毒に思われたのか、これまでページのどの部分が出ていたのか教えて下さいました。勉強のコツがわかった途端、小テストは満点には届かずとも困ることは無くなりました。
物理は、高校三年の夏休みに質問日があり、英語と時間が重なっていたため、私しか質問者が物理教室に来ておらず、一対一の家庭教師状態になり、そこで三角関数が分かっていないことがバレてしまい、数学から教えて頂きました。
その時に言われました。「あなたは、公式を理解しようとしているけれど、それは数学や物理の天才が一生かかって見つけたものなのだから、それを一週間やそこらであなたが分かるわけがない。天才が見つけてくれたものを利用するだけでいいんです」
「練習問題はとりあえず易しいものを問題集の最後まで解き、それが終わってから、発展問題を前から解きなさい」
その時、つくづく、文系科目と理系科目は考え方が違うんだな、と思いました。国語に関しては理解できるまで、ずっと念頭において考えていたからです。
今でもこの頃のことは、忘れません。
結局、各教科担当に、勉強の仕方を聞きに行けば良かったのです。残念ながら数学は数学の先生に尋ねてもダメでしたが……代わりに物理の先生に教えていただきました。二学期になって物理が欠点を脱出したとき、お礼に伺いました。
共通一次の物理Iは、当時、文理同じ試験で平均点でした。1回目も2回目もあまり変わらず、55点だったと記憶しています。
求めよ、さらば与えられん。勉強したい、分かりたいという人に、先生たちは教えたいと思っています。
ま、しかし、個人の家庭教師ではないので、たくさんの生徒を抱え、教員の仕事も多岐に渡ります。質問の時は、あらかじめ時間を約束して行きましょう。
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