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カムバック俳優の魂の熱演【ザ・ホエール】

見終わった後席から立てなくなった映画は久しぶりだ。
それくらい圧倒される作品だった。

ブレンダン・フレイザーがアカデミー主演男優賞を受賞した本作は、彼にとってのカムバック映画であったことが連日とり挙げられている。
彼に何があったのかは割愛するが、そんな彼だからこそ行えた魂の演技であるという見方には完全に同意する。

原作が戯曲である本作は異色の室内劇だ。
映画を見る上での楽しみの一つである風景というエッセンスがほとんどない。
よって私達は登場人物の心情を景色として受け取る。
しかしながら、天気というエッセンスや光による効果はしっかりと描かれる。

扉を開けた先にある外の光さす様子が美しかったり、鳥のために外に出しておいたお皿が雨に打たれていたりする一方その窓から新しく光がさす。

私が本作を見て疑問だったのは“画面が小さいこと”。
冒頭からなぜか画角が四角いのだ。
チャップリンや、初期の黒澤映画のように四角い。
ブラウン管を彷彿とさせる画角だが、本作に古さを強調する必要のあるバックボーンなどあっただろうかと首を捻った。

フレイザー演じるチャーリーは何度も尋ねる。
「私は悍ましいか?」
彼は自分の姿を、七つの大罪である暴食によって培われたその業を恥じている一方で、聖書によって禁忌とされる(流派によるのだろうか?)同性愛を誇りに思っている。

だから聞くのだ。

「私は悍ましいか?」

それは罪=同性愛ではないとする証明であるかのように感じた。
そして彼の出来うる限りの緩やかな自殺だ。
多くの作品で生きることとして使われる食べ物が、彼にとっては首を括るロープのようなもので、過食嘔吐のシーンなどはこちらの食道も熱くなるようだった。

それなのに彼はまるでそれが使命であるとでもいうように楽観的で前向きである。魔のティーンエイジャーの真っ最中である娘の今後を心配しながらも彼女自身を信じるという方法で彼女を押し上げていく。

信じるというのは個人の極めて利己的な選択であると私は思う。
その人が極悪人であっても信じる勇気を持った人には敵わない。
関係ないからだ、その人の何を差し置いても自分は信じるという最大の自己中心的行動だからだ。
それが自分を捨てた、誰よりも愛していて、誰よりも憎んでいる相手なら尚更効力が増すだろう。
誰よりも彼に愛してもらいたかったのだから。

この室内劇で一番異質なのは、宣教師だろう。
チャーリーが死にかけた時、扉を叩いた彼は神の使いなのか。
それとも彼の信念を引き裂きにきた悪魔なのだろうか。
きっと両方なのだ。それがわかっているから、チャーリーは最後の瞬間まで彼を追い出すことをしない。
宣教師には宣教師なりの正義があって、それを果たそうとする。
だが、彼の正義はとても利己的でわがままな動機を孕んでいる。
それを親友のリズは拒絶し娘のエリーは翻弄する。

本作が、善と悪を決めない作風であることが明白になるのは、エリーが宣教師にした行動によってだ。彼女が邪悪であるのか、それとも素直であるのか、長所と短所は紙一重であり、どちらに転ぶのかわからないのが10代なのだ。

室内劇ということもあってか、ライトや光の使い方が見事である。
チャーリーと言い争ったエリーはチャーリーに自分のところまで歩いてこいという。もちろん彼は自力では立てない巨体であるため歩行器が必要だが、それを使うなとエリーはいう。
エリーの背後には眩い光に少し夕焼けが混ざっており彼女の壮絶に入り乱れた怒りが垣間見える。
立ち上がれなかったチャーリーはサイドテーブルの上のランプを落としてしまい光が消える。そのままエリーが出ていき影を落としたチャーリーが映る。
このシーンだけでも光がどれだけ重要なのかわかる。

そしてこのランプをもう一度つけてくれるのがリズなのだ。

リズも大変素晴らしい役柄だった。
演じたホン・チャウもアカデミー助演女優賞にノミネートされていたが、彼女の涙はいつも本物だった。こんなに透明な涙は他にないのではないかと思った。
思い出の中でしか語られない“アラン‘’というキャラクターが本当に存在しており、彼女にとって最愛の兄であったことを私達は彼女から知ることができる。

チャーリーに対する献身的な看護に違和感を覚えないのも彼女の演技力のおかげだろう。チャーリーは文字通りリズによって生かされている。
彼が、彼女から手渡される食べ物だけは丁寧に食べているように見えたのは私だけではないはず。

しかし、おそらくリズもチャーリーによって生かされている。
そしていつかそれを失うとわかっているのに離れられない。
兄を失った後、チャーリーの緩やかな自殺を側で見る彼女はどんな気持ちだったのか。

元妻との再会シーンも好きなシーンの一つだ。
喘息の症状がひどくなっていることを悟った彼女は「音を聞かせて」という。
胸の音を聞きながら、彼に抱きついて泣いている彼女は母親ではなく1人の人として彼の存在がなくなることを悲しんでいるのがわかった。
彼が家族を捨てた時の悲しみも、怒りも、自己否定の歴史も垣間見えた。
そしてそのさざなみに似た音を立てている胸の中で、彼女は家族旅行で行った海の話を聞くのだ。

チャーリーはエッセイを書くためのオンライン授業の講師をしており、そのカメラはずっと壊れている。
ということにしてカメラをオフにしている。
そんな彼が教えるエッセイの基本は、「素直であること」
思ったことをありのまま書くこと。それが良いエッセイだと語る。

では私も素直になろうと思う。

「娘との絆を取り戻すための最後の一週間」
というキャッチフレーズがあったはずだが、これはナンセンスである。
いや、少なくとも私はこれは本作にあっていないと思う。
(炎上を恐れる癖がついてしまったな)

彼は娘を取り戻そうとなどしていない。
娘との絆を取り戻そうとしているわけでもない。

ただ、彼女を信じているのだ。
ひたすらに。自分勝手に。

とんでもない父親だという人がいるかもしれない。
今10代である少女たちが見たら、たまったもんじゃないと怒るかもしれない。
しかし、自分が何をしていても信じてくれる人間がいたというのは、エリーにとっての人生を変える出来事だと私は思う。

チャーリーは最後の授業で、悍ましいと言われた業だらけの体をオンライン授業の生徒たちの前に晒す。
そして重なるのだ四角い画角と。
その時に私は思った。
これは、チャーリーが最後に娘に行った授業なのだと。
だから、月曜日に始まり、金曜日に終わる。週末は含まれない。

父が最後に行った授業内容は「素直であること」。

そして週末には過去そうしたように親子として海に行く。
そこで彼は白鯨となって、禁忌を咎める人間の片足に喰らいつくかもしれない。

(全然綺麗な終わり方にならなくてしんどい。)

というわけで、アウトプットしないといけないほどには影響力と圧倒的な感情のぶつかりがある作品だった。夢見は悪い。

雪燃ゆる

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