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納得を探して

 最近「納得」がポイントかなと思うようになった。そうか「納得」かぁ!と一度思ってみれば、これまでいろいろやってきたことがだいぶ説明つくんだけど、この前まではそんなことピンと来ていなかったから不思議。ずっとこう思ってきたような、話してきたような気もするんだけども。

 「納得」に焦点が当たったのは、この間読んだ『枠組み外しの旅』が影響している。この中に、納得しなければ変わらない、納得は自分でしかできない、と書いてあって、言われてみればそりゃそうだ!なんだけど、なんとなくそうとは思っていなかった自分にハッとした。
 納得は与えられるものではなく、自分でつかみ取ろうとするものなんだ。

 折しも先日、まさに仕事の手続き上納得いかないことがあって人と話し合いをして、結局相手の説明と手続きには納得いかなかった、ということがあった。ただ、話し合いの場で、私はちゃんと自分の意見を述べた。私自身がこう感じていて、だからこそこの状態なのが納得できないのだ、と発信した。結局話はわかってもらえなかったけど、言ってみたことで、相手にそもともわかってもらえないらしい、ということははっきりした。わかってもらえないならどうにもならねーな、とその形の納得を得られた。これで、自分が言おうと決めた意見を述べていなければ、納得は得られなかった。

 この「納得」というやつがとても大切だ。

 ちょっと話がそれるけれど、私はわりと小さいころから本が好きなタイプだった。でもなぜか大学生のころからだんだん読む量が減った。特に社会人になってからは月に1冊も読まないことが出てきて、読みたい本は買うのに読めない、ということが起こってきた。仕事に使えそうな本も買っていたので、読んで役立てればいいのにと常々思って、それでも読めない自分に苦悩した。
 それが、突然去年あたりから徐々に読む本が増えてきて、今は数年前より格段に本を読むのが楽しい。苦労せず気軽に読めている。
 この違いはなんだろう?と考えたときに、一つの要因として「納得」がある気がした。ターニングポイントは前も話題に出したけど『中動態の世界』。この本を昨年読んだときに、もうはっきりとした、ああ~~~!!! そういうことだったのか!!!と腑に落ちる感覚があった。
 これまでも、そうそうそうだよね!!とうなずきながら本を読んではいたけど、その意味をちゃんと感じたことがなかった。それが、強烈な腑に落ちる感覚と共に、そうか私にとって本ってこうやってああ!!となれるものだったのか、本のほうがよっぽど同じようなこと考えてる!!仲間がいるのか、と気がついた。
 専門書に限らず、小説・漫画でも何かを受け取る感じがある、とも気がついた。これまでも受け取りながら読んでいたはずなんだけど、あんまり実感していなかった。

 個人的には本を読んで、この話面白かった!! となるだけでは「納得」は出てこなくて、この話面白かった!! 私ってこういう話を読むと明るい気分になるんだな、視界が開けた感じがするなぁ…と自分の状態を思ったときに、「納得」がある気がする。最近は前よりどんな本を読んでも、そのあと自分がどう感じたかを受け取って、感想にするようになったのもあって、「納得」することが多い。
 結果として前よりいろいろ読むようになって、気分は晴れやかだ。読まなきゃ読みたいのに!!と数年前のほうが読書に対して切実だったんだけど、実際今のほうが読めている。それは「納得」したからだろう。私にとって読書とは腑に落ちる体験、新たなものをもたらす行為、かけがえのない励ましだと。

 結局、何かをやろうと思ってもやれないときに、やみくもに切実になっても仕方がない。自分でどうにか「納得」を探しに行ったほうがいい。
 狙って「納得」することも難しすぎるから、せいぜい自分としてやりたいよう物事に取り組んでみて、それで「納得」を見つけられたらラッキーなんだろう。私にとっては「納得」探しは楽しいから、実際に「納得」を見つけられなくても悪くないんだよね。

 読書に関してはこれまで書いたnoteもいろいろ踏まえて変わってきたところがあると思うので、また別にまとめてみたいなぁ。楽しそう。

 

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