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「納得できない」の限界値

 料理をしようと思って火曜日に作り置き用スープの材料も買ってきたんだけど、なんだか料理までたどり着けない。

 火曜日は元々たどり着く気がなくて、帰宅後ご飯を食べてから散々漫画を読んでいた。楽しかった。
 水曜日は、晩御飯用に食べようと決めていたものぐらいは料理ができたけど、スープは作り始められなかった。そのうち眠気が来て早々とねた。
 木曜日も、うだうだとしているうちに9時近く。昨日と同じくねむけに襲われつつあり、料理しない可能性が上がり続けるばかり。
 金曜日、友達とおしゃべりする予定があって、その前に晩御飯を食べ、料理をするぐらいの時間はありそうだ──が、やっぱり料理を始められない。

 うーん料理までたどり着けない。食材は買ってあるから悪くなっちゃうし、料理してしまえたほうがいいんだけど、料理を行う一歩が切り替えられない。ただまぁ、不思議としょうがない気もする。とにかくおしゃべりの時間にはなってしまったから、料理は明日に回そう……そんな状態で友達とのおしゃべりが始まった。

 友達とのおしゃべりではいろいろ話す。noteに書いたような話も結構友達との話からまとまってきたことだ。最近のおしゃべりではまさにこの間noteにも書いた、「納得」のテーマがよく出てくる。
 例えば、結果にはどうしても「納得」いかないことであっても、いかにその結果を飲み込む「納得」を得るか。不満があるときに、その不満を言わないまま飲み込むことがまるでカッコイイかのように思われやすいものの、実際は全く「納得」を探していないこと。
 私はつい読書で夜更かしをしてしまう癖がある。それも、読んでいる夜更かし中の自分にとってはまさに楽しかった!と大満足して「納得」しているからこそ、夜その瞬間止めるのが難しいことにハッとして、同時に夜更かしの翌朝の私にとっては「納得できない」不快さと後悔をもたらしている事実に思い当たった。そりゃなかなかどうにかしにくい状態だと「納得」した。

 そういう話をする中で、料理ができないこの数日が思い出された。結局、ここ数日の自分は料理ができないことに困りつつ、なんとなく「納得」していた。できなくても仕方がない気がした。
 最近仕事が忙しく、帰ってきたらすでに疲れ果てていて、料理はできる程度の疲れといえども、実際やりたくない感じが強い。帰り道で今日こそ料理をしよう、と思っていても、帰ってきたらもうやりたくない。
 これはいいわけか?と書いている今は思うけど、その時の体感を思い出すと違う。腹の底から、感情的な自分が、“機嫌ちゃん”が、やりたくないを主張する。だからできないしやらないし、やらなくても仕方がない気がする。

 ──そうか、「納得できない」がもういっぱいなんだ。

 友達と話す中でふわっと浮かんだ。ずーっと「納得」ばかりを得て生きていけるわけでもないし、「納得」か「納得できない」かが明確にわかれることばっかりでもない。
 今の仕事の忙しさは、半ば仕方がないと「納得」はしつつ選んでいるもので、ただ自分が望んでいるわけではないから同時に「納得できない」も降り積もってくる。もっとゆっくりやりたいが、ゆっくりやっていては間に合わなくなる、後の自分が苦しくなるとわかるから、ある種「納得」して急いではいる。が、辛いものは辛いし、さらに不意打ちの物事はもたらされて、こんなに頑張ってこなそうとしているのにさらにくるの!?という「納得できない」はたまっていく。

 コップの水があふれるように、「納得できない」もコップのような器にたまっていって、あふれる総量があるんだろう。限界値があるんだろう。
 これ以上頑張ってしまえば、もう爆発してしまう。だからこそ、ある意味できないのも当然だ、と思いつつ「納得」して料理は遠ざけられていた。料理をするぐらいなら、たくさん本を読んでいくほうが心は癒されるしやりたいことをやれていると「納得」ができる。だからそれを求めた。

 「納得できない」は確かに「納得」が得られると落ち着く。
 誰かにすごく理不尽なことをされたとき、私は理不尽なことをされねばならなかったのか、そんなわけはないはずだと「納得できない」感じがある。理不尽なことをしてきた相手と直接話し合って解消できたら、この「納得できない」感じ自体が消えるんだと思う。ただ、多くは理不尽なことをしてくる相手だから、解消する話し合いすら難しい。
 そうなると「納得できない」は行き場を失ってコップにたまったままになる。つい「納得できない」ことを考えて、自分で勝手にコップの中身を増やしてしまう。ぐるぐると「納得できない」をためていく。
 そういうときに、私はよく友達に話をする。これが理不尽だと思った!と聞いてもらう。そして「確かにそれは理不尽だね」と同意されると、すぅっと落ち着く。やっぱりあれは理不尽だったと「納得」できるから。

 私が料理をしなかったのも、料理をする以上に「納得」できるもので「納得できない」を落ち着かせることに忙しかったからなんだろう。うーんしなきゃいけないのにな~困ったな~、という感じが、やんなきゃいけないのにできないとか本当にダメ、みたいに切迫感を伴っていなかった時点で、なんとなく自分の中では必要なことだとわかっていたのかも。なーんて思う。

 ともあれ、やれたらやれたで晴れやかなことは、午前中についに料理を済ませた今では実感されてもいるのである。ヤッタネ!!!

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