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留学思い出話〜2001.9.11 ボストンで最後の新学期を迎えた直後のこと

2022年9月11日。今朝、Twitterで
【「最悪の1日」孫は知らない9.11】
とキャプションのついたこちらの記事を偶然目にした。
21年前の今日、私はボストンでの学生生活最後の学期を迎えたばかりだった。
正直今でも映像は見れない。毎年日本のニュースで流れる程度のことも見るのを避けてきたのだけれど、21年…、時を経てやっと冷静にこの記事は読むことができた。

忘れてきたからこそ、やっと当時を思い出しても大丈夫…と思った。これ以上時間が経つと記憶はもっと薄れてしまうし、書くなら今だと思った。


その日の朝、まだ新学期が始まったばかりで、初めてのクラスに行く支度をしていた。いつものようにテレビでNBCのThe Today Showを流しながら、メイクをしている最中のことだった。突然、飛行機がWTCに突撃したニュース速報が入った。その時は事故だと思ったし、そのように報道もされていたと思う。だが、その後しばらくして2機目が突っ込んだ。これは事故ではない…と誰もがそう思っただろうが、まだ一体何が起きてるのかわからなかった。
尋常では無さそうだが事態がよく把握できなかったので、とりあえずクラスの時間だからと学校に向かってみた。校舎前の通りはすでに、携帯片手に右往左往する人々で溢れ返っていた(ちなみにこの記事にも書かれている通り、当時スマホはまだない。今のようなSNSもない。私もようやくただ通話ができるだけのプリペイド携帯を買ったばかりくらいの頃だった。)
校舎の扉にその日全クラス休講の貼り紙を確認したので、とりあえず日本の実家に連絡しておこうとコンビニで電話用のプリペイドカードを買って、アパートに帰った。
一旦、実家に電話。もちろん日本でも同じ映像がニュースで流れており、両親とも驚いていたが、ボストンも私も無事だから大丈夫だ、また連絡すると伝えた。

同じ学校に通うミシガン州出身の女性ギタリストと、ニュージーランド出身の男性ドラマーと3人で住んでいたアパートには、私の部屋にしかテレビがなかったので、しばらく3人でぼーっとニュース(しかやってない)を言葉少なげに眺めていた。ビルが崩落した瞬間、あまりの驚きと現実味の無さにため息しか出なかった。なんだかとても静かだった気がする。映画の1シーンを観てるみたいにしか思えなかった。

しばらくして、少しずつ詳細が明らかになってくると、ハイジャックされた飛行機のうち1機はボストン発だったと分かった。ボストンは比較的小さな町だ。スーパーやホテルなどが立ち並ぶ場所は普通によく通るため、ひょっとしたら犯人とすれ違う可能性だってあったかもしれない。そう思うとなんとも言えない気持ちだった。
95年の地下鉄サリン事件の時のことを思い出したりもした。あの日の朝、私は留学の正式申し込みをするため、両親とともに留学機関のある阿佐ヶ谷に向かっており、乗り換えの新宿駅で足止めをくらっていた。母はいつもだったら日比谷線に乗って築地にある職場に行っていたのだが、その日は私の付き添いで会社に行かなかった。帰宅してニュースで築地駅周辺の様子を見て愕然とした。
9.11の時も、ちょうどその日何かトラブルがあったり寝坊したりして遅刻した人たちが助かった話を幾つか聞いた。

アメリカであれほどの惨状をレポートするニュースを見たのももちろん初めてだったが、おそらく日本ではオンエアされないであろう具合が悪くなってしまいそうな場面もそのまま流れていたように思う。そして、真っ先に救助に向かった方々が何人も命を落として行った報道を聞いてはひどく苦しくなった。
先にも触れたが、当時はスマホ、SNSが無い。
今はテレビを消しても、Twitterがあれば、ある程度見たくないものはスルーして必要な情報だけを得ることが可能だ。だが、当時はまだテレビが情報源の主流で、新しい情報が出るまでの間、何度も何度も繰り返し同じ映像が流れるのを目にしてしまう(今も有事の際のテレビは同じだが)。
今なら情報をシャットアウトする術を多少持ち合わせているのだが、当時はただただ受け止めてしまっていた。だから現場にいた訳ではないにもかかわらず、精神的にはかなりのダメージを受けていたと思う。

学校がいつまで休校になるのかわからず、翌日はまず無理そうだ…と思い、翌々日くらいに一度学校に向かってみた。校舎まで歩いて10分ちょっとくらいの所に住んでいたのだが、通りは不気味なほど静かで、立ち並ぶアパートの窓はどこもかしこもすべて星条旗で覆われていた。すれ違うどの車のアンテナにも小さな星条旗がはためいていた。そのある種異様な光景に、日本にいたら感じることのない強い「愛国心」というものを感じ、少し怖かった。
その思いが少しでも暴走したら一気に戦争になるんじゃないかとも思った。

数日経つとようやくテレビでは、路上にたくさんのキャンドルを焚いて讃美歌を歌ったり、静かに犠牲者を悼む様子などが流れるようになった。
依然外は静かで、現場はニューヨークなのになぜかボストン市内でも遠くの方でサイレンの音がよく聞こえていたのを記憶している。

学校が再開したのは1週間後くらいだったろうか…。
危ないから帰って来いと家族から言われて帰国したり実家に帰る人たちもいたが、私は親と相談して、今動く方が危ないから学校に行ってた方がいいだろうという事で残ることを決めた。

私にとってバークリー音楽大学での最後の学期のスタートは忘れられないものとなった。
ソングライティングを専攻して2年目だった。その時の気持ちを形にしておきたくて、新学期が始まるまでの間に曲を書いた。

Forgiveness
 
Our peace was killed
The breakdown was real
Repeated images were washing your brain
 
It causes your anger, reveals your sadness
Smorky ashes like a grieving rain
 
Your flowing blood was frozen up
Your sleeping soul was woken up
 
Crying, praying and forgiveness
Don't let it slide, here by your side
There is a love for you
 
 
Too much love turn into a blindness
It has a power to send you to glory
As time goes by
The memory will be fade-out
It will be swallowed into a history
 
Your weeping heart ran out of tears
You'll be alive without fears
 
Crying, praying and forgiveness
Don't let it slide, here by your side
There is a love for you
 
 
Your flowing blood was frozen up
Your sleeping soul was woken up
 
Crying, praying and forgiveness
Don't let it slide, here by your side
There is a love for you
words by Chie 
(C)2001 Sweetchic All right reserved


自ら日本語に意訳すると下記のような歌詞だ。

「FORGIVENESS」

平和は侵された
崩落は現実
繰り返す映像に洗脳されてゆく

それは怒りを引き起こし、
あなたを悲しみに晒す
煙たい灰は嘆きの雨のよう

体内を流れる血は凍りつき
眠っていた魂が呼び起こされる

泣いて、祈って、そして赦しを
どうか見逃さないで、
ほら、あなたのそばに
愛はあるから

行きすぎた愛情は人を盲目にさせる
それはあなたを(神の)栄光へと導く力すら持つ

時が経つにつれ、
記憶は薄れていくだろう
そして歴史に飲み込まれていく

泣き続けた心は涙が枯れ果て
怖いもの無しに生き続ける

泣いて、祈って、そして赦しを
どうか見逃さないで、
ほら、あなたのそばに
愛はあるから

出来は良くないので、聴くのはオススメしないが音源も一応貼っておく。
暗い曲で友人からの反応も鈍く、当時のことを思い出すので自分で弾き語りしたいとも思えず、結局どこにも披露せぬままのお蔵入りの曲だ。でも、あの時にしか書けなかったものだから、作っておいて良かったと思っている。
(ここからしばし言い訳…)
このデモ音源は、2001年当時、作詞・作曲・編曲〜打ち込み〜レコーディング〜ミックス〜 CDに焼くまでを自分一人でやるという授業のプロジェクトの一貫で作ったもの。ギターだけは上手い友人に生で演奏してもらったので別格だが、あとは全て私の拙い打ち込みで作ったトラック。さらに寝不足続きで劣悪の状態で録ったフラット気味の不安定な私のボーカルが乗っている(苦笑)。ミックスも何度も繰り返し聞いているうちに訳が分からなくなってしまい、バランスがおかしい。
まあ、言い訳は尽きないが、あらゆる意味で忘れ難い最後の学生時代の記録としてここに残しておくことにする。



「孫は知らない」…、それだけの月日が過ぎた。個人的にはこのことがあった事実は知っておくのが良いと思うが、知らなくて良い詳細もあると思っている。
うちは両親ともの祖父母が戦争の事について全く語りたがらなかったのだが、今その理由が少しわかる気がするのだ。

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