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最強ドリームチームによる大好きなショパンピアノ協奏曲1番を聴いた

ポーランド国立放送交響楽団 来日ツアー
マリン・オルソップ(指揮)
角野隼斗(ピアノ)


9月7日〜19日にわたる全11公演。
私は初日の川口リリア、2日めのサントリーホール、そして千秋楽の神奈川県民ホールへ行ってきた。

【はじめに…】
この記事を公開するまでだいぶ時間が経ってしまった。
ツアー最終日神奈川公演の翌日から入院し、親知らずを3本(下2本は水平埋没智歯だったが、一度酷く腫れて痛んだ事があり抜くことに決めた)を抜歯。入院自体は2泊だったが、その後腫れと強い痛みがしばらく治らず、痛み止めを飲まずにいられるようになってきたのがここ数日の話で、ようやく文章を書く気持ちになった…というところだ。
さらにこの記録を書くに辺り、自分の精神的健康を保つために忖度無しの完全なる主観で書きたかったため、数日前から取り掛かっていたものの、正直公開すべきか悩んでいた。
すると、本日(10月17日)、日付が変わってまもなく、ツアー大阪公演で収録された音源が公開された。これを待って正解だった。会場で聴いてモヤモヤしていた事が全て自分側の問題によるものだったと答え合わせができたからだ。
なので、ちょうどショパンの命日でもある今日このタイミングで公開しようと決め、寝かせてあったものに追記する形で仕上げたことを先に述べておく。

【角野さんとの出会い】
ピアノYouTuberの1人としてなんとなく認識していた程度だった角野さんが、昨年ショパンコンクールに出場されており、「え!なんで?!」と思ったのが最初のきっかけ。
音大出身じゃないピアニストがかの有名なショパコンに出ているというだけでもうすぐに惹かれてしまった。さらにコンクールのYouTube配信のチャット欄は外国語での応援メッセージも非常に多く、なんだこの人は?!と強烈に興味をそそられた。

【ショパン ピアノ協奏曲への個人的な思い】
ショパンのピアノコンチェルトは学生時代にChautauqua School of Musicのサマープログラムに参加中に初めて聴いた時から、1番も2番も甲乙付け難くどちらも大好きで、愛して憧れてやまない曲だ。
(↓シャトークァについてはこちらに記載)

20数年前の私が学生の頃は、音楽を勉強してる者たちが集まるこのようなプログラムの中でも、このショパン協奏曲が弾けること自体ものすごいことで、生徒たちの間で弾ける人が居たら「滅多に聴けるもんじゃないから聴きに行こう!」と、その優秀な生徒数名がマスタークラスで弾くのを意気揚々と聴きに行ったりした。
私はその時に初めてショパンの協奏曲の存在を知り、1番も2番も一聴き惚れした。当時ルームメートだったマレーシア人の友人が「2番の導入部、演歌みたいだよね?!ほら、都はるみだっけ…?!」とか興奮気味に教えてくれて、確かに"あなた変わりはないですか〜♪"と「北の宿から」の一節を彷彿とさせなくもないと思った。切なくメランコリックなメロディーは確かに演歌っぽいと思い、私の中では「2番=演歌」という認識で強烈に印象に残っている。
日本に帰国後、初めて聴いたのは大宮ソニックシティで演奏された辻井伸行さんの1番だった。その後もピアニストが誰かは関係無く、ショパンのピアノ協奏曲が演奏されるコンサートは手の届く範囲で度々聴きに行っていたし、大好きなルービンシュタインの演奏によるCDも何度も何度も聴いた。そのくらい1番も2番も曲自体が大好きだ。
だから、ショパンコンクールの時もどうしても角野さんの弾く1番が聴きたかった。。ご本人が最も悔しかったはずなので、私なんぞが悔しいとは烏滸がましいにも程があるが、、悔しかった。
今年の始め、「いつか絶対角野さんの弾くショパン協奏曲1番を聴く!」とウィッシュリストに書いていたその願いは、想像以上の素晴らしい形で、しかも最速ともいえる早さで叶うこととなった。

【1日目 埼玉・川口リリア公演】
激しい雨と尋常じゃない蒸し暑さの中で始まった初日、川口リリア公演。お隣さいたま市の住人としては、このツアーが(ほぼ)地元からのスタートだったことにものすごい運命的なものを感じてしまい、ワクワクと緊張がすごかった…。

川口リリア

チケットは12列となっており少し油断していたら、会場に着き、型式の都合上実質前から2列目と判明し、さらに緊張が増してしまった。とはいえ、かなり下手寄りだったので、ソリストの背中側から聴く形。ここからではやや音が遠いかもしれないと思った。

オープニングにふさわしい華やかな1曲め、バツェヴィチ「オーケストラのための序曲」。ジメジメした湿気を吹き飛ばすかのように空気が一変し、ふわっと明るくなった気がした。
色々と大変な状況の中、はるばるポーランドからやってきたそのオーケストラによって奏でられる音色からはその国の香りが漂ってくるようで、それだけでエモーショナルな気持ちになった。来てくれたことにまず感謝の気持ちが湧いて、何度も心の中でありがとうを言った。

そして、いよいよ本命。待ちに待ったショパン ピアノ協奏曲1番。
自分の個人的な想いと憧れが強すぎて、たぶん聴く私の方が力が入りすぎていたかもしれない。最初のピアノの入りを聴いて「ん?!」っと思った。想像してたより音が軽い?と意表をつかれた感じだった。ただ先に書いた通り、ソリストの背中側からでは判断ができなかった。ただ私の位置で聴いた感覚としては、1楽章はもうちょっとガツンと重たいマエストーソ感(荘厳さ)が欲しいと思った。

2楽章は角野さんの奏でる弱音の美しさを目一杯引き立ててくれるような終始繊細な演奏をしてくれるオーケストラに、オケの音ってこんなにまで絞れるのかとまず驚いた。
そして、まるで絶対的安心感のある温かい母親の腕の中に抱かれているような(実際その感覚は覚えてないけれど…)大きな優しさと多幸感を感じて、少し怖いくらいだった。
その包み込まれるような雰囲気に、ガッチガチに力の入っていた私は、もっとリラックスして聴いて良いんだよ…と言われたみたいにも感じた。そもそもコンサートを聴いてそんな気持ちになったのは初めてのことで、得体の知れない感情にちょっと戸惑った。
「オルソップさんの"母なる"感がなんかすごい…、大きな愛の人だ、きっと…」などと、つい音よりもオルソップさんの指揮する様子に気持ちが行ってしまいがちだった。

リズミカルな3楽章ははなから個人的に角野さんにぴったりという印象を持っていたせいもあるが、この日はここでやっと"らしさ"が出てきたかな、と思った。ただ「らしさ」を把握できるほど私はまだ角野さんの生演奏を多く聴いている訳では無いので、これも不確かな感想だ。

曲自体は今まで何度も生でもCDでも聴いてきたはずなのだけど、全く初めて聴いた曲みたいな不思議な感覚に陥った。(角野さんが弾くこの曲を聴いたのは初めてだったのであながち間違いではないが…)
初日の印象としては、全体的にちょっと優しい方向に行きすぎて、慎ましやかに収まってしまっていた感じがした。誤解を恐れずにいえば肩透かしを喰らった…というか、予想の斜め上から来たように感じた演奏だった。
さらに後半のブラームス交響曲1番を聴いて、オケの皆様がとてものびのび演奏されていたのを見て、少し悔しくもあった。
「とすると、協奏曲はまだお互いだいぶ気を遣ってるのかもしれない…?自分が聴いてる位置も関係してるかもしれないし…。」と、この時はまだそんな風に思って自分を納得させようとしていた。と同時に、昨年のショパンコンクールの時にもしファイナルに進んでいたら、このような演奏をしていただろうか…?とも思った。コンクールだったら、もっと派手に聴き映えするような演奏になってたかもしれない…??などと要らぬ少し意地悪な感情も湧いた。

だが翌日、サントリーホールでの演奏を聴いて、また違ったものを感じた。

【2日目・東京 サントリーホール公演】
サントリーホールはなんと最前列、ピアノの椅子の目の前。

サントリーホールの着席位置より

座ってみて初めて知ったのだが、サントリーホールの舞台はピアノ協奏曲を演る際、ピアノが舞台の手前端ギリギリのところに設置されるようだ(そこにストッパーがあった)。そして舞台と客席の間隔も想像より狭く、とにかくソリストに近い。高音域を弾く時にはきっと視界に入ってしまうだろう距離だと思ったら、前日にひき続き私は再びガチガチに緊張してしまっていた。

余談だが、今年の始め、サントリーホールで初めて生で角野さんの弾くクラシックを聴いた。チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番の1楽章だった。1階席下手後方で、そこでも充分素晴らしい演奏を聴けたのだが、やはり一度は音を浴びるような近さで角野さんの音を聴いてみたい…とその時強く思った。それがこんなに正確に叶うこととなって我ながら驚いた。こんな願望成就の仕方は生まれて初めてで震えるほど嬉しかった。
だが恐らく「曲を聴く」という意味では最前列は近すぎると思う。頭の上を音が通りすぎて行ってしまうような感じだ。さらに緊張感も手伝って冷静に聴けない。なので、その日はとにかく弾いている角野さんの視界の邪魔にならないことと、表情をガン見するのも気が引けてしまったので手元を見ることにとにかく集中することにした。
それゆえ音の面に関しては、また感想が曖昧になってしまっている。

協奏曲のピアノの入り方は前日よりはズシンと響いていた気がしたが、それでもやや迫力に欠けていたように思った。なぜだろう…、前述した今年始めのチャイコ協奏曲を聴いた時に、「こんな後方にまでオケに負けない低音をふくよかに響かせることができる人なんだ!」といたく感動した覚えがあるから、決して迫力を出せない訳ではない。。すると、このショパン協奏曲を弾く際には意図的に抑え目にしているのかもしれない…と徐々に思い始めたのだ。

2楽章。間近でソリストと指揮者の息づかいまでもしっかり感じ取れる位置から、固唾を飲んで見守るように聴いた。とにかく私の変な緊張感が伝わったりしてませんように…と願いながら。。すると自分が弾いてるのではないのに再び緊張の波が押し寄せてきて、2〜3度呼吸困難で意識が遠くなりかけた。
角野さんの細い指が細かく震えているのも確認した。おそらく我々が感じるような緊張から来るものではなく、あの繊細な弱音を最上級に美しく鳴らすためのものすごい集中力からくるものではないかと思う。例えが相応しいかわからないが、アナログレコードにそっと優しく、それでいて正確に針を落とす時の、あの一瞬の張り詰めた感覚に少し似ているかもしれない、とそんな風に思った。
そして、奏でられた美しい弱音が会場後方にまで届いてるとしたら、その周波数を受け取るには私の位置は近すぎて、受け止めるためのキャパ限界寸前だった(←呼吸忘れてるから)。
3楽章に入って、やっと正気を取り戻し、最後まで無事聴くことができたのだが、神席にも関わらず、このようなコンディションで聴いてしまったことが少し悔やまれた。ただ「角野さんの弾く音を浴びるような位置で聴いてみたい!」という夢は完璧に叶ったので、そこは喜んで大切な思い出としてしまっておきたい。

その日帰宅してから、放置してあったこちらの本を何気なくパラパラと読んでみた。リストがショパンについて書いたものだ。

フランツ・リスト著 
フレデリック・ショパン─その情熱と悲哀

そこで
「深遠で、上品で、夢見がちな悲歌詩人。ショパンは自らの演奏によって人を驚かせることも、圧倒することも、望まなかった。大きな熱狂ではなく繊細な共感を求めていたのである。」
と、書かれていた部分が目に止まった。
そういう奥ゆかしさみたいのが日本人に好まれる所以な気がする…などと考えていた時に、はっ!とした。
(私がマエストーソ感不足を感じていた1楽章に対して、)「もしかしたら角野さんはショパンらしさの表れでギリギリ重すぎない感じにしてるのかもしれない!!!」と思った。真偽の程はわからないが、そうか…そうだったのか…と勝手に納得し、勝手に感動して泣けてしまった。笑
病気がちで痩せていただろうショパンが当時のピアノで作曲したことを考えると、そもそも現代のピアノで弾かれていること自体が別次元の話なのだが、作曲者へのリスペクトを鑑みると納得が行く。
そういえばその日初めて間近でみた角野さんは想像していたより身体も指先もずっと細身で、その繊細な雰囲気ひっくるめてショパンらしい(…というより再来?)と感じた。むしろ鍛えて身体を大きくしたりしないで欲しい…などとムダな心配をしたりもした。笑

そこで私は気持ちを切り替えて、今まで自分の中で勝手に築き上げてしまっていたこの曲のイメージ(ほぼルービンシュタインの演奏によるもの。今も大好きであることは変わりないが…)を壊さなければと思った。今回のショパン協奏曲はオルソップさんと角野さんとポーランド放送響のチームで作り上げた特別なもので、また別の指揮者とオケで演る時には別の(印象を持つ)曲になる。きっとコンチェルトとはそういうものなのだ。
あと1回、最終日の神奈川公演は、彼らの表現を全面的に信頼し、身を委ねて、私にとっての新しいショパンピアノ協奏曲を全力で感じようと思った。

【最終日 神奈川・神奈川県民ホール公演】
少し日にちが空き、最終日。神奈川県民ホール。この日は中央ブロック上手寄り、前から5列目(今回のツアーのチケットは3回とも素晴らしく恵まれていた)。

神奈川県民ホールの着席位置より

ようやく最初の2回ほどガチガチに緊張することなく曲を楽しめる位置だった。そして、気持ちの切り替えも出来て、ようやく聴く万全のコンディションになったかもしれない。

この日はもうプログラム1曲めの最初の音が鳴った時から泣けてしまった。ポーランド放送響の皆様の音は、良い意味でなんだか素朴で穢れのない感じがして、雰囲気がとても温かい。これが終わったら帰ってしまうんだなぁ…と思ったらとても寂しくなった。

協奏曲は「今日のピアノはスタインウェイだよね?」と疑いそうになるほど音が明るい印象で、擬人化するなら愛らしい女の子だと思った。角野さんに弾かれてすごく幸せで喜んでるように見えた。特に2楽章ではその愛らしい女の子(ピアノ)の目がハートになってますよね?!って思うほどロマンティックな演奏に聴こえ、まるで角野さんとピアノの相思相愛っぷりを見せつけられたように感じた。
そして、私自身そのくらい幸せな気持ちを享受できる程度に心の余裕があったのだと思う。


【大阪公演音源リリース】
そして、今日10月17日、ついに9月10日の大阪公演で収録された音源がリリースされた。

気持ちを落ち着けて、イヤホンをして、目を閉じて聴いた。冒頭のオケのぶわんと広がる奥行きある音色がとても素晴らしく、一瞬で涙腺をやられた。
そしてここまで長々書いてきた通り、会場で聴いた後にどうも払拭できないでいた心の色んなモヤモヤが、やはり全て私側の問題だったのだ、とやっと確認することができた。こんな気持ちの良い答え合わせはない。
音源で聴いた1楽章のピアノの入りはたっぷりと大きく響き、そこに軽さは全く感じなかった。やはり私が聴こえていなかっただけだったのだ。後半に差し掛かると、行ったことはないのに閉じた瞼の向こうにポーランドの情景が見えた。(それは実際会場でオケメンバーの顔を見て聴いたからこそ感じられたものだと思うが…。)
意識が遠のきそうなほど張り詰めて聴こえた2楽章は、天から雪のように優しくきらきらと舞い降るような美しい音色であったことがわかったし、3楽章は軽快ながらも終わりに向かう寂しさのようなものが一気に押し寄せてきて、涙が溢れて仕方がなかった。会場で聴いていた時はそこまでエモーショナルになっていなかった。
総じて感じたのは、私の中のショパンピアノ協奏曲1番の、こうであったらいいな…と思う全ての理想が寸分の狂いもなく体現されてるような最高の演奏だった…ということ。どの音1つぞんざいに扱われることなく、全ての音に魂が宿って活き活きと放たれているようだった。特に2楽章は、自分がいつか息を引き取る時に枕元でこの演奏が流れていて欲しいと本気で思った。
私の1番大好きなピアニストは私の1番大好きな曲を完璧な形で届けてくれていたのだ。音源を聴いてそれをやっと実感することができた。(実感するまでに時間がかかりすぎてしまっていささか申し訳ない気持ちだ。)
さらに今夜、映像でもその演奏が公開される。
この先繰り返し何度でも見聞きできるその大きなプレゼントに喜びが溢れる。


だが一方で、音源の良さにあまりにも感動してしまい、じゃあ会場で聴くことの意味はなんだろう?とふと考えてしまった。
会場で聴く際、座席の位置、視覚的情報量の多さ、自分の体調や精神状態…などあらゆる要素がない混ぜになっているため、その時受け取った感情が全てとは到底言い切れないと常に感じている。贅沢なのは百も承知だが、できることなら会場でその場の雰囲気を実際に体感し、さらに然るべき場所から一番良い状態で収録された音源をリラックスした状態で聴く、その両方を堪能できてやっと”聴けた"と納得できるのかもしれない…と思った。
全てにおいてそこまで拘ることはないけれど、自分にとって特別大切な曲や演奏は、やはり特別大切に聴いておきたいのだ。

【最後に…】
オーケストラのツアーを複数回観に行くこと自体今回が初めてだったけれど、オケと指揮者とソリストの関係がこんなに強い一体感のあるコンサートというのは、人生で初めての経験だった。
昨年のショパコンで角野さんの存在を知れたこと、そしてこの場に連れて来てくれた角野さんに本当に感謝だし、このツアーを長い時間かけて準備し、実現してくださったたくさんの皆様に心の底から感謝の気持ちでいっぱいだ。
忘れられない、人生の中で紛れもなく幸せな音楽体験となった。
音楽が好きで、ピアノが好きで居続けて良かった。

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