自己紹介エッセイ(幼少期〜学生時代編)

noteを始めてしばらく経ちますが、自己紹介という記事を書いたことがありませんでした。

そもそも自己紹介が超絶苦手だったので避けていたのもあるのですが、全く知らない場所にポンと入って自分のことを明かさないのはどうなんだ…?と思い直しまして…。

とはいえ、いったいどこから始めたら良いのかわからなかったので、端的プロフィールに肉付けする形で行ってみようと思います。

【プロフィール】
Chie
東京都出身
'75年生まれ 牡牛座 0型 子なし未婚独身
コロラド州立フォートルイス大学卒
バークリー音楽大学中退
株式会社oricon MEでモバイル事業、株式会社日テレアックスオンで映像アーカイブ業務、その他派遣社員などを経て休職後、現在第二の人生を模索中(←要するに無職)

幼少期〜高校

出身は豊島区寄りの新宿区。
父の実家近くに3歳まで住んでいて、幼稚園から板橋区へ。中2の時、母の実家を建て替えてさいたま市へ移る。

小学校は板橋区の公立校でのびのびと楽しく過ごしたが、中学受験をし、都内私立女子校での中高6年間、学校が合わず生きた化石のような暗黒期となった。
(実は中3の頃に、地元の共学の公立高校に入り直そうかと塾の入塾試験まで受けに行ったが、またその1年後くらいから大学受験の勉強を始めるのか…と考え、思い止まった。それに辞めたら負けな気もして悔しかったので、とにかく耐えた。)

高2から通い始めた代々木ゼミナールが楽しすぎて、大学現役合格を逃す。高校卒業後1年間代ゼミで浪人生活を送る。

浪人時代は生まれてはじめてこんなに勉強した!って思うくらい勉強したが、結局英語だけしかできなかったので、再び大学受験で全落ちとなる(第一希望だった早稲田一文の受験日はひどい高熱が出て会場にすら行けず終了)。

燃え尽きて廃人になっていた私を見るに見かねた母が、「留学はどう?」と。その鶴の一声で一気にそっちの流れに事が運ぶ。

新聞広告で見つけた「9月から正規留学」の文字に惹かれた両親が説明会に私を連れて行く。相談に乗ってくれたアドバイザーの女性の人柄に惚れて、ほぼその場で決定した。

大学時代

①コロラド州立フォートルイス大学
受験英語はまあまあ得意だったが会話は全く出来なかったので、目的が無いまま渡米して途中で潰れて帰ってこないように…と、先に学部を何にするか決めてから行けと言われた。
そこで趣味で細々と続けていたピアノを使わない手はないということになり、留学機関の提携校から音楽学部のある大学に進学することになった。
そこでコロラド州立フォートルイス大学に入学、音楽学部ピアノ演奏科に籍を置いた。

総合大学なので、一般教養のヘビーさは相当なものだったが、参加していれば良い成績が取れる音楽系の授業を必要以上にたくさん取ってGPAをキープ。
結果、学部からOutstanding Seniorの表彰をしていただき、成績優秀者(Cam Laude)として卒業した。

4年生の終わり頃、まだ日本に帰国するには早い気がしたのと、先生から「大学院には行かないのか?」と勧められたのもあり、院の受験も試みた。
ピアノソロより伴奏が好きだった私に、コラボレーティブピアノ科という学科のあるクリーヴランド音楽大学とイーストマン音楽学校(どちらも先生の母校でもある)の大学院を受けるよう半ば強引に促され、ほぼ記念受験的に受けに行った。準備不足、実力不足で当然不合格…。

受験旅行から帰ってきて「私はバークリーに行ってみたい!」と腹が決まった。願書と先生方の推薦状を提出したら合格してしまった。
9月からの入学は間に合わなかったため、翌年1月からバークリー音楽大学に入学した。

②バークリー音楽大学
田舎の大学の小さな音楽学部でどんなに優秀でも都会に出たらすごい人は星の数ほどいる…というのは頭ではわかっていたけれど、実際入学してみて、本当に居場所を見失った。

親から「学生はあと2年が限度」というタイムリミットを提示されていたため、あまり悩む暇もなく、ただパフォーマンス科では無理そうだ…と思い、最初はミュージックビジネス科に籍を置いた。

バークリーは基本ジャズの学校なので、どの学科を専攻しても、必須のジャズ理論とジャズピアノのレッスンは取らなくてはならなかった。
でも、クラシック上がりの私はコード譜が本当に読めなくて、その上テンションノート、アドリブなどが加わるとパニックだった。練習しようにも練習の仕方がわからず退屈で身が入らない。

最初の学期を終えた後、フォートルイス大学の単位を移しても、あと1年半でミュージックビジネス科を終えるのは到底無理だということに気付いた。
そこで、ミュージックビジネスやセルフプロデュースの触りだけでも学べて、難しいジャズのコードが読めなくてもシンプルなコードを使って、曲を自作するならなんとかやって行けるかもしれないと思い、ソングライティング科に移ることにした。

さらに、1年目の途中から初めてアルバイトにもチャレンジした。留学生は学内のアルバイトしかできないので、私はバークリー・パフォーマンス・センターという音楽ホールの仕事を申し込んだ。
(実際はこのメインホール以外に校舎にいくつかある小さいホールの仕事もある。)
仕事内容はチケットもぎり、座席案内、ロビー・トイレ・終演後のホール内の簡単な掃除など。
制服があって、タキシードシャツに黒のベストと蝶ネクタイが貸し出され、下は私服の黒パンツ。結構お気に入りだった。

チーフはアメリカ人の社員だが、バイトリーダーは学生で、ハワイ出身ネイティブ・アメリカンの長髪男性とドイツ出身のスラリと背の高い女性の2人(プライベートでもカップル)だった。
他のレギュラーメンバーはベネズエラ出身、南アフリカ出身、ギリシャ出身などバラエティ豊か(どこか忘れてしまったが小さい島国の王子も居たな…笑)。
公演が始まってロビーがヒマになると、雑談中に時々互いの国の話になったりして楽しかった。

公演も様々で、講師や生徒たちのライブやイベント、プロアーティストのコンサート、あとは時々午前中に中・高生向けの演劇教室があったり、スタンドアップコメディのショーや、毎年5月に恒例のボディビル大会がなぜかここのホールで開催されて、おもしろい光景だった。笑
開演すると、中に入ってドア付近に立ちながらショーを観ることができたので、ライブ好きとしては本当に役得だった。今や世界的ジャズピアニストである上原ひろみさんの学生時代の演奏もバイト中に数回観たことがある。
(余談だが、在学中にジョシュア・レッドマン、坂本龍一さん、キング・クリムゾンのコンサートは客として観に行った。)
ユダヤ人ばかりが集うイベント、黒人ばかりが集まるイベントがあったのも日本人の私には初めて見る光景で少し不思議に感じたが、あの空気感を肌で感じられたのは良い経験だったと思う。

楽器の練習をするよりバイトばかりしていたが、成績はそこそこをキープしていたので、バイトの時間数と成績が考慮されて少額ながら奨学金もいただけた。

途中で専攻を変えてしまったのが影響し、結局卒業に必要だった最後の1クラスだけが2年以内に間に合わず、諦めて中退することにした。
曲作りのノウハウを学べただけで充分だったし、作った曲に成績をつけられることにあまり意味を感じられなかったのもある。それにすでに1つ大学は卒業していたので、あまり"卒業"にこだわりはなかった。

バークリーの2年間が終わったら帰国して音楽業界に就職したいと思っていた。
アメリカでは、学生のうちは外国人でも色々なことが優遇されていると感じていたが、社会人になるのは勝手が違う…と肌感覚でなんとなくわかっていたし、私自身もここらで一旦日本に帰ってみたいという気持ちでもいたからだ。

2002年の1月、6年半に渡るアメリカでの学生生活にピリオドを打ち、帰国。
日本で就職活動をし始めた。

続きは 社会人編 へ。

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