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【今日の物思い】唐突に両親に感謝の気持ちが湧いた日。

8/27/2022

今朝、推しピアニスト角野隼斗さんの恩師であるジャン=マルク・ルイサダ先生の過去のインタビュー記事を読んでいて、

 「エコール・ノルマルで教えている生徒たちは、週に1回私の家で映画を見るんですよ。若い人たちには、文学、美術、映画などの過去の名作に親しみ、感性を磨いてほしいと思います。…」

とおっしゃられてるくだりがあって、深く納得し感銘を受けた。


小学生の頃に私は両親が美術をやっていたのに逆らって音楽(ピアノ)を選んだのだが、振り返ってみると育った環境はやはり美術寄りだったし、そういう意味では多かれ少なかれ両親の影響を受けているように思う。


父はかつて麹町の某テレビ局で会社員として美術デザイナー(番組セットのデザイン)をしていたが、武蔵野美術大学の学生時代は舞台美術を専攻していた。父の恩師は舞台美術家の三林亮太郎先生で、父は先生の鞄持ちをしているような関係だった。
(余談だが、母は武蔵美の短大生で同じ三林先生のゼミで父と知り合っている。父は藝大狙って2浪していたので、母より5つ上の大先輩だ。結婚は卒業後だいぶ経ってからだったようだが、両親の仲人は三林先生で、私が生まれた時は父より先に病院に顔を見に来てくれたらしい。幼い頃、お正月に先生のお宅に新年のご挨拶に行くのが恒例で、私は"おじいちゃん先生"と呼ばせていただいていた。)

小さい頃、浅草の劇場におじいちゃん先生がセットを描いたというレヴューを観に連れて行ってもらったり、父が舞台デザインをしたバレエを観に連れて行ってもらったり、セットをデザインした番組の公開収録に連れて行ってくれた事もある。
今もコンサート、ライブ、演劇など生で観るのが大好きなのはその頃の経験も少なからず影響しているかもしれないと思う。

幼稚園、小学生時代を過ごした板橋のマンションの部屋はリビングがほぼ両親のアトリエになっていた。扉を開けると図面台になるような壁面収納になっていて、父が家で仕事する時はそこで図面を引き、使っていない時は当時専業主婦だった母が趣味でステンドグラスを作っていた。ガラス板を削ったり、ハンダゴテを使ったりして危ないので、私は母の側に寄らせてもらえない事が多かった。母がガラス板を調達するのに、渋谷の東急ハンズなどにも時々連れて行ってもらったりしていた。キレイな色のガラス板、見慣れない工具や部品がたくさんあって楽しかった。
家のリビングにはレコードプレーヤーとスピーカーもあって、父は仕事しながらビッグバンドのジャズを聴いてたことがあったし、母は私が学校から帰ると大音量で五輪真弓さんの「恋人よ」を聴いてたりした(暗い…笑)。
マンションの狭い納戸は美術に関する本や専門誌の書庫のようになっていて、幼い私は棚によじ登っては資料の一部として置いてあった海外の絵本などを眺めていたりした。今も海外の絵本が大好きだ。

当時全く興味が無くても、両親が行く美術展にはついて行っていたし、オーケストラのコンサートにも連れて行ってもらっていた(その頃はほぼずっと寝ていたが…)。
クラシック以外でも、ステージセットデザインの参考のため、と海外の大物アーティストの来日公演はまず父がチケットを取ってくれて、マイケル・ジャクソン、ローリング・ストーンズは数回家族で観に行ったりもしたし、日生劇場でやっていた「オペラ座の怪人」や(仮設の)専用劇場ができたばかりの時の「CATS」などミュージカルにも連れて行ってくれた。

父の仕事柄一日中家ではテレビがついていたし、自分はそういう環境で育っていたから普通なのだが、おそらく相当どっぷりエンターテイメント漬けの、ある意味恵まれた環境の中で育っていると思う。


当時住んでいた板橋のマンションは新築で何棟も連立した小さな町のような作りになっており、とある大企業や商社の家族が多く住んでいた。お父さんは商社マン、お母さんは元CAみたいなお宅がとても多かったように記憶している。そのマンション区域内に小学校も入っており、親同士が会社の同僚だったりすることもあって、子供の学力競争が激しかった。
うちは父の異色な職業柄、その競争には直接巻き込まれなかったのだが、おそらく名門大学出身のエリートな親御さんたちが多い中で、美大出身のうちの両親はまあまあ変わり者だったはずだ。"キー局に勤めてるお父さん"ってのが免罪符みたいになってたかもしれないけど、専業主婦だった母は学校で私が普通にやって行けるようにめちゃくちゃ必死だったかもしれない…と今頃になってふと思った。
それと同時に、母はジュエリーデザインの仕事の就職が決まっていたにも関わらず、父が外で働くことを許さず、私の存在のせいで自分のやりたかったことが出来なかった…という鬱屈した思いも抱えていた。それもあって余計に私に必死だったと思う。(一人っ子だった私はその必死さを全て丸ごと受けることとなり、色んな意味でじわじわと潰れて行った訳だが…。)
それでも母は私が高校生くらいの頃、父の友人の会社でパートタイムで働きはじめ、テレ東の某長寿番組の初期のセットデザインを担当した。スタッフロールに名前が出た時は私も嬉しかった。それでも本人は納得しておらず、常にイライラしていたし、私が愚痴を聞ける年齢になってからは会うとほぼ愚痴を聞かされていた。


私は番組のスタッフロールに名前が出ることをとてもすごいことだと思っていたので、そんな両親を越えられない自分が不甲斐無く悔しいと思うと同時に尊敬もしていた。(逆らってた手前、素直に言ったことはなかったが…。)

だがその一方で、私は長い間母から浴びせられていた「アンタは一体何がしたいの?!」という恐喝に思えたほどの高圧的な言葉に疲弊し、やっとの思いで絞り出すように何かを発しても「アンタにそんなことできる訳ない!」と頭ごなしに全否定され続けていたのがトラウマのようになっていて、母の他界後数年経っても、「もう誰にも反対されない、やりたいことをやっていいんだよ…」という事実をなかなか飲み込めないでいた。
最近だいぶ自己否定の思考グセから脱却しつつあるものの、本当に好きなこと、やりたいことが何なのか、イマイチ定まり切らないでいる。

ただ、今日ルイサダ先生の記事を読んだ後に、「これだけ小さい頃から様々なアート、エンターテイメントに触れてきて今の私が出来上がってるのだとすると、それはたとえ世間の何の役にも立たなくても、なんかおもしろいものがたくさん詰まった人間にはなっているんじゃないか…?多少の感性は磨かれてるんじゃないの??」という気がふとしてきたのだ。
そしたら、これまで私をそういう環境に置いてくれていた両親に突如感謝の気持ちが湧いてきた…という次第だ。

ちなみに私は大人になってからも、これまでずっとエンターテイメントに関わる仕事をしてきたし、エンタメを通じて多くの音楽、アート、映画に触れてきている。仕事を辞めた今もそのスタンスは変わらない。そしてこの先もその探求は永遠に続く。それはただ単純に好きだから。


長い上に非常に取り留めない話になったが、
それが今日の物思い。

(写真はいつだか母が体調不良で行けなくなったオペラシティのコンサートに私が代わりに行き、帰りに新宿で父と2人でお茶した時の。父と2人のお出かけは滅多になかったが、結局これが最後だった…。)

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