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留学思い出話〜サイアクの出会いから大恋愛へ…?!

1996年 大学1年を修了した夏休みのこと。
私は7週間のChautauquaサマープログラムを終え、8月中旬頃にデュランゴへ戻ってきた。

見知らぬ男と爆破予告

大学の音楽学部のある建物にはピアノ専攻の生徒用に鍵付きのグランドピアノ練習室が1つあるのだが、それ以外のアップライトピアノの練習室は全て開放されていて、音楽学部以外の生徒も使える。なので、時々見慣れない顔の生徒もぽろぽろピアノを弾いていたりもする。
新学期が始まるまでの約2週間、ルームメイトはギリギリにならないと日本から戻らないし、私は練習しかやることがないので、久しぶりに学校へ行った。すると見慣れない生徒がいた。建物の中をウロウロしたり、たまに辿々しいピアノを弾いていたり。
私は特段気にすることもなく、いつも通りほぼ私しか使わないピアノ専攻者用のグランドピアノの部屋で練習をしていた。

すると3日めくらいだろうか、帰ろうと駐車場に向かうと、私の車の前輪の下に「動かすと爆発する!」と毒々しい赤い文字で書かれた紙が挟まっていた。
夏休み中で、広〜い駐車場にポツンポツンと数台の車が停めてあるだけだったので、おそらく私以外誰もその紙に気付かなかっただろうと思う。一瞬「んー…、アメリカだし、危ない…かな?!」とも考えたのだが、まあ、いたずらだろう…と思い直して爆破予告の紙をそのままに、普通にエンジンをかけ、大丈夫そうなのを確認し、運転して帰った。
その後数日にわたり、似たような手口のいたずら(嫌がらせ)が数回続いた。
私は1年目はまだ英語にも自信が無かったし、元々の性格的にもオープンマインドな方ではないので、「練習ばっかりしているクソ真面目な日本人」として一部の学部生達の間でも認識されていたのは知っていた。たまに差別的用語を言われたり、貶されたりもしたこともあったので、その一環かな…くらいに思っていたのだが。。

犯行を目撃、そして…

ある日、練習の合間に休憩しつつ、ラウンジにある掲示板を見ていたら、トランペット専攻のマット(私の憧れの先輩 エリンのいたバンド The Fulldogsのメンバーの1人)についての嫌がらせ的内容の紙が貼ってあったのに気付いた。
どうやら犯人は私にだけではなく、音楽学部の目立つ生徒にちょっかいを出していたようだった。
そこからまた2日後くらいだろうか…、私が練習を終えて帰る時にラウンジを通りがかると、先日から建物の中をウロついていた見慣れない顔の背の高い男子生徒が掲示板になにか紙を貼っている姿が一瞬私の視界の隅に入った。
だがそこは一旦見なかったことにして私はそのまま立ち去り、しばらくして戻ってその紙を確認した。何と書かれていたかは忘れてしまったが、見るに耐えないマットへのくだらない悪口が書いてあったのは記憶に残っている(ちなみにマットは温厚で真面目で純朴なとても良い人で、難癖つける方がムリがある)。
彼が紙を貼っている現場を私が目撃したことは向こうも気付いていたと思う。その時を境に私への嫌がらせはピタリと止まった。わかりやすい…。

そこで私は考えた。
向こうが新顔と言うことは私の方がきっと年上なんだろう…(そもそも一浪してから留学してるので、大体の場所で少し年上だった)、今度会った時は私から声をかけてみようと決意した。

翌日、練習の合間に休憩しようとラウンジの自動販売機にお菓子を買いに行くと、うまい具合に彼に出くわした。このチャンスを逃す手は無いと、思い切って私から「Hi!」と声をかけてみた。
そして互いに名前を聞いて、私は日本から来て9月から2年生、ピアノ専攻であることを話したと思う。彼の名前はグレッグ。別の学部生だったらしい彼は、たぶん9月から音楽学部に編入すると思う…と教えてくれた。
その時私は、一連のいたずらについては触れないでおいた。間違いなく彼の仕業だと思っているが、確固たる証拠もない訳で…。
しかし、喋ると普通の人なのに、なんであんなことを…??とあれこれ考えた。
小さい学部だったから、生徒同士がある意味ファミリーのような感覚がある。その中に新しく、しかも2年生から入るのは、もしかしたら心細いかもしれなくて、それがねじれた形で表現されているのかもしれないと思った。背丈は190センチくらいあるデッカい男の子なのに、アメリカ人でもそういうねちっこい嫌がらせする人がいるんだなぁ…と思って、むしろある種の親近感のようなものも感じた(日本の女子高で陰湿な嫌がらせをくらっていた私は、その手の性質は日本の女子特有のモノかと思っていたので…。笑)。こちらから話しかければ普通に話してくれるだけ、素直で良いヤツじゃないかと思った。
そうして会話を交わしたのをきっかけに、一連の嫌がらせは完全に止まった。思い切って自分から話かけて良かった…とあの時ほど実感したことはない。笑

同じクラス、縮まる距離

新学期が始まると、楽典のクラスでグレッグと一緒になった。担任はパーカッションの先生。そしてグレッグはその先生の元でパーカッション専攻になったようだった。
楽典は1〜4まで4期に渡って取らなければならない必須科目。1年生の時の楽典1〜2は他学部生も一般教養として取れる科目で基礎中の基礎。それは英語がおぼつかなくてもなんとかなったのだが、2年の楽典3からはやや内容が複雑だったし、先生が話す英語も少し難しく感じた。授業中に指されて答える時にも、私の英語力では時々言いたい事が伝わらないことがあった。そんな時、グレッグが私の言いたい事の意図を汲んで、「チエは〜だって言いたいんだと思う」などと助け船を出してくれたりした。あんな嫌がらせしてた人とは思えない行動に「え、マジで?!」とにわかには信じられない気持ちもあったが、度々助けてくれたおかげでクラスの雰囲気が気まずくなるようなことも避けられ、私もクラスの人達や先生に馴染めるようになった。

夜になると練習室付近にいるのは大体いつも同じ顔ぶれで、グレッグと私もそのメンバーの中にいた。
練習の合間に休憩がてら、ラウンジで2人で夕食を食べたり、一緒に宿題をしたりもするような仲になっていた。男性と仲良くすることに慣れてなかった私は、もうその頃くらいから彼をかなり好きになり始めていた…(←落ちるのが早いのよ。苦笑)
さらに深い時間になると、比較的練習熱心なメンツも帰ってしまい、建物の中にいるのはいつも私とグレッグと掃除のおじさんの3人だった。
田舎だから、遅い時間に1人で練習室に居て自分の音が止まると、ものすごい静寂に包まれる。少し怖くもあるし、ものすごい孤独でもある。でもそんな中、遠くの方からグレッグが練習しているマリンバやビブラフォンの音が聞こえると、ああ、まだ居るんだ…と思って私は安心して練習ができた。
おそらく彼は鍵盤打楽器初心者であっただろうけれども、熱心な練習でメキメキ上達し、先生からも信頼されるような生徒になって行った。

私たちは学校にいる時間の方が長いタイプだったが、休みの日に時々互いの家に遊びに行ったり来たりもしたし、いつの間にか彼がThe Fulldogsのメンバーの一員になっていた(メインはビブラフォン、時にギターやドラムを担当していた)のをいいことに、憧れの先輩エリンが卒業して居なくなってしまった後も引き続き彼らのライブはほぼ欠かさず観に行っていた。
とにかく一緒にいる時間が長かったし、私はものすごい勢いでますます彼のことを好きになっていった。

想いは空回り…

3年生の時。私が自分のジュニアリサイタルでやらかした黒歴史はこちらに書いた通りだが、リサイタルが終わった直後、グレッグはすぐにバックステージに来て、私を抱き上げてとても喜んでくれた。私としては自分の初めての渾身のリサイタルを彼に捧げてしまうほどに全身全霊で恋してしまっていたので、喜んでもらえただけでとても嬉しかった(←健気すぎるよ、、当時の私…)。
半年遅れて、次の学期に今度はグレッグのジュニアリサイタルがあった。
私は彼のリサイタルの成功のために、自分のリサイタルの時にもお守りとしてつけていた母からもらった天然石のペンダントを彼に貸してあげた。「ありがとう」と軽く受け取ってはくれたものの、その軽さが少し心配だった。。

リサイタルにはもちろん彼のご両親もいらしていて、小さなホールなので顔を合わせることもあったのだが、彼はご両親に私をただの"友人"としてさえも紹介してくれることはなく、完全にスルーされてしまった。そして1年生のホルン専攻の女の子をうやうやしくご両親に紹介していたのを見てショックを受けた。私的には「誰、その子?!」的な新キャラだった。どうやらできたてほやほやの彼女らしかった。
(翌日、彼女がツヤツヤな顔をしてキャミソール一枚で構内を歩いてるのを見かけて、ああ、一夜を共にしたのね…とすぐわかった。
私からの熱量高めな好意がわかっていたから言えなかったかもしれないが、彼女ができたなら教えて欲しかった。。)
そんな感じですっかりのけ者にされた私は、彼のリサイタル終了直後、彼に「よかったよ!」とだけ伝えて、ペンダントを返してとも言えないまますぐに家に帰った。

なんとなく嫌な予感はしていたが、その後数日経っても貸したペンダントは戻ってこなかった。そんなことに先生を巻き込みたくなかったけど、なんとなく気まずくて直接グレッグに気軽にものを言えなくなってしまっていた私は、自分のピアノの先生にその経緯を説明すると、先生が彼に「チエから大事なもの借りてない?返してちょうだい。」と言って取り戻してくれた。先生から「そんな大事なものを人に貸したらダメよ…」と言われて少し泣いた。

終わらせるための告白

そんなことがあっても私はまだ未練たらしく吹っ切れないでいた。それまで一度もきちんと「好きです」と伝えていなかったことも心残りだった。向こうに彼女ができたのはわかったが、卒業する前に自分の気持ちを伝えて、ちゃんと振られてスッキリしようと思った。

4年生、最後のバレンタインデー。
通常アメリカでは男性から女性へプレゼントする日だが、気持ち的に切羽詰まっていた私は日本式に私から告白することにした。
ひと口サイズのクッキーを焼き、雑貨屋さんで探して買ってきたかわいいアンティーク柄の缶にクッキーを詰め、カードにメッセージを書いた。いつも通り練習に行き、「ハッピー・バレンタイン!」とそれらを手渡した。
しばらく練習室にこもり、帰りにまた彼に会った。「バレンタインのスペルが間違えてるよ」と恥ずかしい指摘を受け(←肝心なところで抜けてる私…苦笑)、「クッキーもおいしかった、ありがとう」と言われた。カードの中に、「ずっと大好きでした。今までありがとう…」というようなことを書いたはずだと思うけど、今となってはなぜか全く覚えていないし、そのことについて彼から何か言われた記憶もない。。
ただ帰りがけに掃除用具部屋のドアが開いてて、私がクッキーを入れて渡した缶が棚の上に置いてあったのを見つけてしまったのは覚えている。「いや、彼女がいるのに家に持ち帰れないものを渡した私が悪かったよ…」とその時思ったが、どうせなら視界に入らないところで捨てて欲しかったし、「ああ、完全に終わったな…」とやっと気持ちに蹴りがついたのは確かだった。

(今これを書きながら振り返ってみてふと思ったのだが、彼は出会った当初のあの嫌がらせのことを私にバラされたくなくてずっと仲良くしてくれてたのかもしれないな…と。だとしたら、私があんなに本気で好きになってしまったのは彼にとっては誤算だったかもしれないし、ひどく困っていたかもしれない。。笑)

傷心旅行と卒業後の進路

そんなバレンタインが終わると、私はひどい傷心の真っ最中ではあったが、5月の卒業を目前に自分のシニアリサイタルの準備と、大学院の受験準備などに追われて、悲嘆に暮れている場合でもなかった。
付け焼き刃的にあれこれ詰め込んで、私はひとり、オハイオ州クリーブランド→ニューヨーク州ローチェスターへ大学院受験の旅に出た。先生の勧めで受けた大学院だったが、どちらも名門すぎたし、そんな付け焼き刃的な勉強で受かる訳がない。当然試験自体は散々だったが、傷心旅行としては打って付けだった。
他にも総合大学の大学院の情報なども先生が取り寄せてくれたりしたが、私はそれよりバークリーに行きたいと申し出た。9月入学には願書の書類提出が間に合わなかったが、2000年1月からバークリー音楽大学へ行くことが決まった。

その頃、当時1年生だったスカイという優秀なドラマーがいたのだが、彼は半年で我々の大学を離れ、9月からバークリーに転入することが決まり、ちょっとした話題になっていた。そしてそんな後輩くんに触発されたのか、グレッグはその年のバークリーのサマープログラムに参加しに行っていた。
ボストンから帰ってきたグレッグに「どうだった?」と聞くと、「バークリーは素晴らしかった。良い経験だった。けど、ボストンには行かないと思う。」と言っていた。彼はデンバー出身、そしてコロラドの自然が大好きな人間で、今もずっとコロラドにいる。
一方私は、あの山奥から日本に永久帰国する前に一旦アメリカの都市部の学生生活も経験しておきたかった。正直言うと、誰も知らない田舎の大学を卒業したって日本じゃ全く通用しない、とにかく名前の知れてる学校に通ってから帰国したかった…というところだ。当時、コロラドから出たがらない彼を見て「井の中の蛙め…」と思っていたが、現在先生として演奏家として堅実に音楽を仕事にしているのを見ると、何者にもなっていない私の方がどうしようもない気もする。それでも私は自分の選択に後悔はしていないが…。

学生時代の本気の大恋愛は人生最高のスパイス…?

進路に対する思いがこれだけ違っていたら、万が一両思いになったとしてもうまく行くことはなかった…と解り、私は心置きなく大学からも彼からも卒業できた。
約3年間に渡る長い片思いだった。年頃になって初めて本気で好きになった人だったし、若さゆえ、今じゃ考えられないほどのパワーで純粋に熱烈に恋をしていた。あんな風に人を好きになることはもう二度と無いだろうと思う。
かなりの痛みも伴ったけれど、そんな学生時代の大恋愛の思い出ができたことはある意味幸せかもしれない。
だって振り返ってみて、めっちゃ面白かったもの…!笑

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