とても突然だけれど、私は母親だ。
このnoteに当たっては存在をチラつかせてさえいなかったけど、子どもがいる。
夫も。
子どもたちは、もう手を取るほど小さくはない。
自分で起きて、自分でご飯を食べて、自分で登下校出来る年齢だ。
彼らの幼少期は、自分にできる精一杯で子育てをしてきた。
融通の付く仕事だったので、どの子も3歳までは目一杯一緒にいた。
自分の願望は充分叶った。
年子の上2人の布おむつを干していると、知らないおばちゃんによく話しかけられた。
下の子を抱っこ紐で前に担ぎ、両手には小さな手を握り、近所の公園に通った。
義務教育期は三者三様色んな事があったし、しでかしてくれた。
子どもの成長というよりは、親の成長期だったように思う。
成長痛は痛かった。
試されていたのは忍耐力。
四苦八苦試行錯誤しながら義務教育を終えた2人は、先に立ちはだかる将来を見据えて今を生きている。
義務教育終盤の1人は、上を見ながら自分の方向を探っている。

幼少期に自分の精一杯で臨んできたので、『子育て』に対する後悔は一切ない。
『あの時こうしていれば』は私の育児にはない。
その時々、やりたいようにやってきた。

小さな体を思いっきり抱きしめたり、手を繋いだり、一緒になって走り回ったりした。
悪い事はきつく叱り、良い事は思いっきり誉めた。
寝る前には、部屋を真っ暗にして、影絵大会もした。童話をモチーフに作り話大会もした。
図書館には足繁く通った。紙芝居は子どもたちのお気に入りだった。
工作も折り紙もお絵描きも新聞紙遊びも好きなだけした。
部屋を風船だらけにしたこともある。
雨の日には小さな身体にカエルのレインコートを着せて、長靴を履いて、傘をさしてわざわざ散歩に行った。
小さな小さな庭に大きなビニールプールをはって、庭一面プールにしたこともあった。
お弁当を山ほど作って、色んな公園にも行った。
ぶどう狩りに行ったり、芋掘りに行ったり、サイクリングロードに行ったり、電車やバスに乗ったり。
場所と時間を見つけてはよく出かけた。
餅つきもひなまつりもこいのぼりもお月見もハロウィンもクリスマスも、大袈裟で大雑把な行事を家族みんなで笑い転げながら過ごした。

子どもたちには多分、断片的な記憶しかない。
でもそれで良い。
私や夫は育てる幸福感を感じていた。

私の背も体重もゆうに越えた子どもたちと一緒に過ごす時間は減った。
それぞれ学校に行き、私や夫は仕事に行く。
土日祝が休みな子どもたちと、仕事な私と夫。
子どもたちはそれぞれがそれぞれの場所で、大切な時間を過ごしている。二度と戻らない日々にいる彼らがとても眩しい。
毎日楽しそうに学校に行く子どもたちに、過ぎ去った側から声をかける。
『二度と同じ日々は来ないから、楽しんでおいでよ』
そんな母親の助言を子どもたちは笑いながら聞く。
でもきっと届いている。

私が彼らといる時に心がけているのは『母親ぶらないこと』。
生物学的には、私は彼らの母親だけれど、それだけでしかない。
だから私には、『母親らしさ』や『母親の品格』が欠けていると思う。
『お母さんだから〜しなくては』が私には一切ない。
自分がやりたいようにする。
あくまで自分と子どもは別人格の別人生。
母親がいなきゃ何も出来ない人には、なってほしくない。

一般的ではない、と思う。
でもそうなりたかった。
執拗な母親らしさほどイヤなものはない、と思っていたし、思っている。
いつも応援はしているし、困れば助けるけど、それだけ。
自分で自分の道を見つけて、進んでいって欲しい。

こんな母親の子どもである3人は、親の欲目だからかもしれないけど、とてもしっかりしている。と思う。
事あるごとに、学校の担任には言われ続けてきた。
しかも全員。
そうならざるを得ないのかもしれない。

でも、それが良い。


子どもの頃の、親が感じていた育てる幸福感は確実に我が子の底に根付き、彼らの人格形成に関わっている。

きっと私も、そんな風に育てられた。
私よりはもっと『親らしさ』と『親の品格』が備わっている両親に、だけれど。

『私らしさ』を大切に育てられてきた私は、色んな感情を持っている自分が気に入っている。あまり思い悩むことはないし、悩んだときは吐き出してすっきりする。自分をよく褒める。

そして、夫は輪をかけて更に強い。
いつも前しか向いていない。
そして彼も多分、自分そのものをすごく気に入っている。

そんな2人が育てた子どもは、自己肯定感の累乗。どの子も強く、どの子も自分の事が気に入っている。
親に内面を話すような関係ではないけれど、私は安心している。
当たり前に備わった強い自己肯定感。
それは、この先きっと自分を支える術になる。


それでも、さすがの我が子たちも、周りの環境がガラリと変わるこの時期、特に4月は、何となく不安味が多くなる。
敢えて口にはしないけど、いつも以上に口数が増えたり、私との関わりを求めたりする。
こればっかりは体格とか友だちではかなわないようだ。

私はいつも通り、いってらっしゃい。と見送り、いつも通り話を聞く。
そして、翌日少しだけ強めのいってらっしゃいを送る。
きっと彼らの背中を押す支えになる。

もうすぐ始まる4月からの新しい生活は、次に繋がる大事な1年になる。
自分とは何か、どうありたいか、
今しか出来ないこと、今だから出来ること、
迷いながらも、自分で納得できる答えを探してほしい。

大丈夫。応援しているよ。

いってらっしゃい。


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