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殺心者の戯れ詩(さつしんしゃのざれうた)

自殺した詩人の言葉は、哀しく冷たく、それらは私の心を刺し抜いた。それは苦痛とも不快とも違っていた。


ここ数か月、抑うつ気分にやられていた。
突然やってくるこの気分になると、何も見ても聞いても何の感情も湧かなくなってしまう。全てがどうでも良くなって、心も体も動かなくなって引きずるような日常になる。加えて今回は「耳鳴り」が加わってしまった。病院で診断を受けても、特に異常がなく、まあとりあえずと処方された薬も効き目がない。

頭の中に壊れたエアコンを取り付けられたようで、四六時中うなりをあげ続け、うるさく邪魔をする。楽しみにしていたはずのイベントもどうでもよくなり、予定表を塗りつぶす。重い気分の日常にイライラが募る。

歩きスマホ、子供の泣き声、爆走自転車、手際の悪い仕事仲間、マニュアル棒読みのファミレス店員・・・。殺意さえ湧く。最悪だ。

何とかやり過ごそうと、身を縮める亀かヤドカリのように、自分の殻に閉じこもれば、惨めな記憶が襲い掛かってくる。オマエハ ミンナニ キラワレル、オマエハ ドウセ ナニモデキナイ、アナタニハ タイヘン メイワクヲ カケラレタ、アナタハ ココニ イナクテイイ・・・。

投げつけられ責められるがまま、飲み込み、心の中で殺し続けてきた思いが、未熟なままドロドロに腐って崩れる果実のように醜い感情に変わる。憎悪、絶望、嫉妬、反感、後悔・・・。自己嫌悪と自己否定がトグロを巻いて締め付けてくる。いつもの事だ。浅い眠りのまま疲弊する毎日。

少しでも前向きな気分にでもなればと、行きつけの書店を散策するも、そこには、どうしようもない気分を更に鞭打つような、派手で薄っぺらい宣伝文句が、軽薄なタレントの笑顔とともにがあふれるばかりだ。

そんな中、引き留められるように目についたのが、「原民喜全詩集(岩波文庫)」だった。枯野、枯木、気鬱、虚秋・・・。店内にあふれる能天気な風景とは真逆な、初めて知るその詩人の世界は繊細で鋭く美しかった。

濠端の柳にはや緑さしぐみ 雨靄につつまれて頬笑む空の下
水ははつきりとたたずまひ 私の中に悲歌をもとめる
すべての別離が さりげなくとりかはされ
すべての悲痛が さりげなくぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに
私は歩み去らう 今こそ消え去って行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

明治生まれで被爆体験があり四十五歳で轢死自殺した詩人とでは、悲しみ苦しみは比べようもない。だが、『今こそ消え去っていきたいのだ 透明の中に』の一節にこれまで感じたことのない共感を覚えた。

幼少期より、常に居心地の悪さ居場所のなさを感じ、事あるごとに、透明になって何も残さず誰にも知られず消えてしまいたい、「死」ではなく「消えて」しまいたいと思うことが多かった。

しかしながら、そんな方法などあるわけもなく、、漫然と時間つぶしのように生きてきた。そんな事を考えるのは間違いなのだと不本意に決めていた。間違いであるのは確かなのだが、どこかが歪んでいた。

でも同じように感じ悩み、言葉にして残してくれた詩人がいた。時空を超えて巡り逢えたようで、心に風穴が開いたようだった。



古い紅梅の枝先に小さな針のような新芽が吹き出しているのに目が留まる。冬の最中に、もう春だけに向かっているように。
ふいに「ああそうなんだ」という感覚につかまれた。何が何で「そう」なのか。前後の脈絡は全くない。唐突に浮かんできた感覚だった。明確な回答でも解決策でもない。それでも、何か強い説得力を持った感覚だった。

いつのまにか不快な耳鳴りは消え、心地よい秋風が聞こえていた。そして、私は詩人が開けてくれた、小さな心の風穴から、吹きだしてくる言葉を追いかけた。醜さ、愚かさ、浅はかさを腐葉土にして生まれる言葉を夢中で集めて綴った。

あれは菜の花の辺りだろう
モンシロチョウが飛んでいた
きれいに咲いていたのだろう
ひらひら踊って見えていた
誰が誘ってくれたのだろう

だけど何処にもなかったよ
花も蝶も見つからなくて
夢から覚めた子供のように
流れる雲を見ていたよ
風が歌っているようだった

きっと青く澄んだ空の下
まばゆく潤んでいるだろう
些細な事さと笑っているね
わたしの心の陽だまりで