【岩手県一関市】みちのくひとり旅3日目 一関の古刹願成寺参り 23.11.19_14:30
願成寺は、先に訪れた祥雲寺の並びのような位置関係に建つ曹洞宗の寺院。
後日、参拝を予定している正法寺の末寺になる。
正方寺の二世月泉良印の弟子により南北朝時代の開山だそう。
巨大な山門が建ち、境内はよく整備されている。
本堂の奥に伊達騒動の敵役、伊達兵部一族の墓が建つ。
といっても、一関改易後の伊達兵部は土佐に流され数年後土佐で死去。
そのため本人の墓は高知市にあり、市の史跡になっている。
では、この一族の墓とは・・・・
そもそも、一関の人たち的に伊達騒動の敵役であったことはなかったことにしたい黒歴史。
街中、田村殿の話は聞くが伊達殿の話は全く聞かない。
統治が短かったからか、痕跡は消し去られたのか・・・どちらにしても御家断絶改易はただごとではなかったはず。
町の歴史上、抹殺されているに等しい扱いだったはず。
境内にある一族の墓というのも昭和62年に出来たものらしい。
大河ドラマの樅ノ木は残ったはとっくに終わっていたが、フジテレビが仲代達矢でドラマにしたり、日本テレビが里見浩太朗でドラマにしたりと、樅ノ木は残ったブームが再来した頃。
うまいこと乗っかろうとした手のひら返しの痕跡としか思えない。
まぁ、結果敵役は結局敵役でしかなく、折角作った一族の墓も観光の目玉になることなく、境内の奥にひっそりとって感じになってしまっている。
よそ者の観光客のあくまで個人の感想だから実際どうかはよくわからないけど。
やらかし領主の扱いの難しさ。
それを利用して時代に乗っかる難しさ。
多分、吉良上野介のところでも同じようなことが・・・でも、吉良上野介は地元じゃ負け知らずのいいお殿様だったという話もある。
伊達兵部には・・・そういう噂は一切ない。
P.S.
願成寺参拝後、町中にある田村家の家老沼田家が武家屋敷として公開されているというので行ってみた。
が、冬期の公開は15時までという短さ。夏季でも16時までなのだけど。
すでに門は固く閉ざされていた。
北国の観光を舐めてました。
初日に訪れた釣山公園の麓に旧藩主田村家の陣屋があった。
今でも一関陣屋跡といわれているが、残念ながら遺構はあまりない。
区画に掘り割が残る程度。今では公共施設が建つばかり。
藩主の陣屋と家老の家は大小の違いはあれ高低差のない町割りに微妙な距離関係で存在していたみたいだ。
なんだかちょっと複雑。封建時代、3万石程度の力関係か。
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