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最近、写真を撮っていない自分へ。

ここ数日、カメラを触っていない。
これは、ちょっとした事件である。
やむを得ず触れない理由なんて、何処にもない。
鞄に入れていれば、写真はほんの数分でも撮れる。
でもそう出来ていない。カメラは家の防湿庫にしまっている。

どうした、自分。


そりゃ写真を撮らず、仕事を惰性にでもこなしていれば、生きてはいける。
でも写真を撮ることは、そして思ったことをnoteにでもインスタにでもメモ帳にでも書き留めておくことは、
社会の歯車であることに抗う武器であり、自分を自分として保つため安定剤だ。

毎日少しでも触れていないと、写真を撮っていないと、
どうやって撮ってたかなと、感覚が鈍る。
そうやって、知らず知らずのうちに自分の中の「自分」を殺していく。

最初の緊急事態宣言中がそうだった。
当時、別にカメラなんて無くてもいいか、そう思うほど離れていたっけ。
でも、無理矢理にでもリハビリしなきゃと思って、約1ヶ月ぶりにカメラを持って外に出た。

近くの海岸の写真を撮った時、全身の血が沸き立つような喜びで溢れた。ひとり海岸で、その幸せを噛み締めていた。
結局自分は、写真を突き放すことも、写真から離れることも出来ない。

それから3年。
似た環境を自分で作ってしまっているのに嫌気はさすが、
今は早く、仕事を終わらせて家に帰って、
カメラに触れたい。電源入れてシャッターを落としたい。
幸いにも、そういう感情はまだある。
まだ自分は、きっと死んでいない。

写真は「気付き」の世界。勝ち負けでは無い。
日々生きるその中で、何か綺麗なもの、面白いもの、心動くものを撮って、自分だけの世界を作っていく事が出来るもの。
元はと言えば、それが楽しくて仕方なくて、それで写真をここまでやって来たんじゃないか。

取り戻そう。
カメラがあればなんでも出来る気がした頃の、あの熱を。感性を。

鞄にカメラを入れる。通勤中のものの数分でも、写真を撮る。
それできっと、これから向かう旅も、その先に果てしなく続く日常も、きっとうまくいく。

以上、自分への戒めの駄文でした。

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