見出し画像

フォトグラフィーについて/#1(-3)

3.「何処にも無かったものの未来が、今光りを使い現れる」
これは自由ということが実践されたことの結果であると同時に、存在したなかったものの表出が可能となったこと。許された、許可されたというよりかは、誰も罰を与えてはいないし、しかしそれ自体は仮想し、架空の実在においてである。
しかし、この一文以前には記憶に触れており、それは特異的な経験によるもの、それは禁止事項を破って、侵入した事実によるものである。その先にあった美。想像した場合の回帰とでもいうものが、当時と変わることのない光りによって、未来にもやって到来するものとして予感、希望を含んでいるものである。
記憶というデータベースと、外の思考(他者)との一線が、記憶に重きをもつ者の孤独がそれで自身を埋め、それは己自身の思考の実践の表れであり、疎通困難をも表すものである。

「ここだけは美しくあり」
とは、幼子が見た筈の失われた過去の光りの原子の希求を含み、望んだのであり、以降そんな場所が実際存在するとしても、それは原子の反復であり、それが記憶と呼ばれるもの(写真家にとって)であると考えている。
光りは自然のものであるから、純粋な善悪の彼岸にあり、それが在るのは、それに付随した主観的なものの捉え方にある。可視性によって起きる趣向。

「その為の犠牲」
とは無頓着さ、粗暴さ、冷たさ、に回収されるのだろうと思うが、原子の反復(記憶)を望むこと自体、空間の潜在性を見極めたいと思うが故であって、それが写真の中毒性、徘徊的な性質に偏り、言葉通り何かを犠牲とするものである。これは悲観的だという事ではなく、そもそもは此処ではない場所。遠くにはあるという想い。そして優先していることに思われるだろう。
しかし、空間の潜在性には、五感を研ぎ澄ましても何も潜んではいない。それを、望む姿勢に、人間的な感情と、誕生や死の必然である不可思議と、その前後の純粋な不可視の世界が、光りや闇の中に感じることにある。ということである。

「その為の優しさ」
とは、先ほど述べた禁止事項を破った特殊性の先にあったロマン的風景によるもので、運命的な事実といえる。
これには、知ると同時に原体験への固定された距離そのものへの回帰的な過去への想いと現在の合わせ持った生成変化を起こし、前衛的な音楽にもあるように、差異を知りながらも一致してしまうことに似ている。そこに時間を顧みた時、あれはこれであって、これはあれでもあるのである。
此処から、つまり現在が、過去への延長という距離感覚はその行為を成す時に消失し、ニーチェ的な意味での力、それは権力とされるが、それはわたし等の現実社会のことを指しているのだが、距離感覚を失う原体験への憑依的な執着こそ、写真家にとっての力といえる。透明な内在的な力となり、外の思考(他者)にはその確信的なものがなく、それは記憶は未だ個人的なものだからではないか。
同時に皮肉にも社会的父性(狂信的指針)がそれを抑圧し、歴史でもあるそれは、まるで後に引き戻されると誤認するかの様に必要な気づきを受け取ろうとしない、と言えばいいのだろうか。

4.「呪詛的な知性が自身を責めるのは確かだが、」
3.に続く言葉だが、その後は3.のフィナーレだけに留まって終わる。つまりここには他者の為という利他的な考えが無いからであり、その代わりに自分で自分を救済しようという表れがあり、それこそ完全なる調和、贈与の交換を不可能とするものである。
またそこには画家とは違い、誰の目に見える通り、誰の目にも見えるものを扱っているというジレンマ、否。絵画を超えたものとしての写真の発生が、同時に誰の目にも明らかであり、瞬間的に写真の写真性が殺されたことに起因していると考える。写真の祖のひとりでもあるフォックス・タルボットの、茅葺の家の写真が、絵画を超えた特徴を含んでいると言われたように。それはタルボットにとっては、写真的なものを探る実験のひとつであった。それを第三者が写真の持っている特性と考えたに過ぎないのである(そこに作者にとって重要な記憶が宿っているのか否か、しかしそれも写真(複製)以前か以後(模倣)かにより、ここに芸術性の問題も含まれるのではないか?)。
タルボットへの偏った評価はコントラストの定着であり、当然に思えてしまう写真の特性、距離(ピント)コントラスト(光りの当たる場所、それ以外の影)それらはまた凝視する対象にふさわしい視覚の誤謬を引き起こし、光りの純粋性を裏切るとまでは言わないが、ただ、コントラストと距離というものは肉眼では認識しづらいことの発見であったのだ。とは言え私が評価するのは内在的な想いをあたかも、その代用として、在る。そのままの姿の写真の自然性の発見にあると考えている。それこそが、私の表現ではなく、美しい記憶を基準とした見返りなき贈与とタルボット的実験そのものが持つ美なのである。

最後に、「現実ならざる新鮮な空気を感じた、もう一つの現実」
とは、繰り返しになるが、空間の潜在性を指しており、同時に原子の反復性を持つ記憶にも無言で言及しているのは明らかであり、しかもそれは言葉(エクリチュール)で出来た景色ではなく、人の口走った言葉(パロール)とエクリチュールの意味が作った後に、残された景色(鏡)のことであると考える。そこへ眼差しは向けられるべきと考えている。


3.4.はフォトグラフィーについてpoetry#1
で書いた詩を推敲したかのような文章であり、その前半1.2.以降の詩で実行した内容である。

作家活動としての写真撮影や個展、展示の為のプリント費用等に充てさせて頂きます。サポート支援の程よろしくお願いいたします。