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フォトグラフィーについて/#1(-2)

1.束の間の体が異郷を眺め、それはわたしたちに染み入り、つまりは映し返したことになる。最後に。我を失ったかのような我。という不可視な想いが、想像の映像や既知の言葉の断片を拾い上げ、その染み入る他者の裂け目に向かい、拡がっていく。

そして、目の当たりにした結果の先を必然的に思う。とは何だろうか。
光の、闇のような空間という妥当な可能性、もしくは消尽してしまう、血色を失い、失血した、まるで絶望が後に表舞台に顔を突如出して、その結果としてのそれがあるかのように。
それとは一つの待たされた現実であり、イメージの終わりのことである。それは時間的な場所から別の何かを汲みだす作業であり、それは時間的なものの中で摘む瞬間的な別のものであると思われる。その終わり。

そして、骨組みを組み直す。と書き、「未来の果ての代わり」「根源の果ての方へ」と述べ、そこには白目を剥いて記憶を辿る。と述べた。
イメージの終わりに探すことの可能なもの。親しき想いや景色。言葉による傷。それら記憶はイメージの終わりには相応しくない。イメージと記憶は全く異なるもので、実際に空間、思考の中でのイメージは消尽してしまう運命にある。しかし、それはかつてあった。のである。記憶はその場所、差異的な感情の場所にあり、思い返すことが出来るだろうと思う。

画像の組み合わせをプリント作業で実験的に行い、カメラでいう多重露光機能のようなもの。
その二枚の選択には何かしらの意味があり、しかし意図しない部分でイメージは出現し、それは、微小な裂け目から噴出したかのように。忘れられたものを、私やあなた以外の誰かが覚えていたもののように思えてしまう。また、それはまるでひとりの沈黙の、その好敵手でもあり、そしてそれは消尽した者のように静寂をまとっているのではないかと思わせる。答えは整然に現れていたとでも言うように。
その前(イメージ)では、余韻という過ぎ去った、古めかしいところから、或いは可能性という現在から先行する場所からの、這い出てきた光りでもあり。それらは何かしらのイメージではなく、イメージのイメージであり、いまだ未知なものである。

image(d-11)2018 展示風景


2.「新しさとは此処、今。しかし正確には昨晩のこと」ここには緊張や不安からの逃避があり、人工的な表象から、つまりはリアリティから離れ、何かの代用品としての眼差しに取り憑かれている者に、「不在」という漠然としたものをつぶやくように記し、それは「開かれた窓」や「久しぶりの季節」といった言葉で。まさしく開かれた窓は新鮮な空気でありながら、同時に身を投げる四角いフレームでもあり、久しぶりの季節とは、四季から一度、欠落した経験のある者の永劫回帰である。

しかし、人工的な表象といった何かに囚われている様に、よりリアルなものを感じようと思う時、それは巨大な空間が開け放つフレーム無きフレームに収められた潜在性に目を向けることではないだろうか。
子供は泣き不意に泣き止む。そこには潜在性、既知なものから全く別のものを感じるようなものがあるように。それを希望の認識と言っては言い過ぎだろうか?
これが、記憶とはまた別のものであり、名づけられないものであり、空間的なものである。


1.2.はフォトグラフィーについてpoetry#1
で書いた詩を推敲したかのような文章であり、その実際の半分の詩で実行した内容である。

作家活動としての写真撮影や個展、展示の為のプリント費用等に充てさせて頂きます。サポート支援の程よろしくお願いいたします。