紫陽花と中学生
自宅近くに、こんなに紫陽花が沢山咲いているなんて、知らなかった。
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在宅勤務が始まって、三ヶ月が経過した。
事務員である私にとって、在宅勤務で、二番目に困るのは、印刷が一切出来ない事だ。
セキュリティの関係で、社内のネットワークに繋がっていないプリンタからの印刷を禁じられており、全ての作業を画面の中だけで完結させなくてはならない。
だけど、それを苦痛に感じたのは、最初の二週間だけだ。
書類のチェックを、pdfファイルで行う事には、案外早く慣れた。
慣れてみれば、自在に画面を拡大縮小できるpdfファイルの方が、紙よりも扱いやすい。
紙の書類を綴じるより、電子ファイルを、検索しやすいように名前を付けて、社内クラウドの共有フォルダに放り込む方が楽だ。
自分なりの工夫で、仕事のやり方を少し変えれば、自宅でも普通に仕事が出来てしまうし、かえって効率も上がる。そんな実感を持ったのは、恐らく、私だけでは無いのではないか、と思う。
感染症の完全克服に、どのくらい時間が掛かるのか分からないけれど、克服する頃には、この国の多くの企業で、仕事の仕方は変わっているのではないだろうか。
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一日に数回、自動的にテレビのスイッチが入るように設定している。NHKのテレビ体操の時間だ。
深刻な運動不足に陥りやすい事が、在宅勤務で一番困る事だ。
正直に言って、運動はとても苦手だ。でも、通勤をせず、買い物はネットスーパーで週に一度、そんな環境では、体を動かす機会は、自分で作らない限り訪れない。
テレビ体操は、同じように在宅勤務をしている同僚から勧められた。五分間、真面目に体操すると、確かに肩も背中も足も、ほかほかとしてくる。滞っていた血が、ようやく巡りだす。
体操が終わったら、テレビを消して、お茶を淹れる。そしてまた仕事に戻り、パソコンに向かう。
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運動不足の対策を兼ねて、ほぼ毎朝、散歩もする。
遠出はしない。ごみ出しや回覧板を回すついでに、家の近所をぶらぶらと歩くだけだ。
在宅勤務が始まった当初、三日くらい、本当に外に一歩も出なかった。ら、気持ちがあっという間に鬱々とした。家の中に居るのは大好きなので、自分が簡単に鬱々とした事に驚いた。
三日目、ごみ出しの為、外に出たら、明らかに足が萎えているのが分かった。ほんの少し歩くだけなのに、何だかしんどい。大袈裟ではなく、生命の危機を感じた。散歩は不要不急の外出では無い事を学んだ。
陽の光の効能も思い知った。鬱々とした心が、あっという間に晴れていく。
引っ越して随分経つのに、家と職場の往復ばかりだった。休みの日に近所を散歩する事はあったけれど、こんなに毎日近所ばかりを歩く事は無かった。庭木の綺麗な家が多い。鳥の声も沢山聞こえる。ささやかな並木道もある。
私、意外と綺麗な場所に住んでいたんだな、と、思う。
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六月に入ると、朝、制服を着た中学生を見かけるようになった。緊急事態宣言が解除され、学校が始まったのだとは、ニュースで知ってはいたけれど、家に子どものいない私は、彼らを見て、その事を初めて実感した。
皆一様に、マスクをしている。ひとり、急ぎ足で学校に向かう子も居れば、友達と並んで歩く子もいる。
彼らの姿を見ていると、自分が中学生だった頃を、思い返したりする。人生で、いちばん生きるのがしんどくて、辛かった頃。
身体が大きく変わる時期。身体に引きずられて、心もバランスを崩す時期。まだ形の定まらない、やわらかい心は、深く傷つく事も多かった。大人には、もしかしたら理解の出来ない理由で、自死を考えた事もあった。
今年、中学生である、という事は、例年よりもしんどいかもしれない。新学期の開始が遅れた分、一回の授業で、どんどん勉強は先に進むだろうし、夏休みも例年よりも短い予定だと聞く。宿題や課題も多いのだろう。
でも、朝の光を受けて歩く彼らは、何だかまぶしい。もしかしたら、自粛に疲れ、ようやく学校へ行ける事を嬉しく思っている子達も、多いのかもしれない。
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中学生を見かけるようになって少し経った頃、紫陽花が蕾をつけ始めた。
蕾をつけ始めた事で、ああ、この道の低い並木は、紫陽花だったのだな、と、ようやく理解した私だ。紫陽花が蕾から少しずつ咲いていくのをちゃんと見るのは、今年が初めてだな、と思う。
さほど好きな花では無かった筈なのに、蕾を見かけると、開花を心待ちにしてしまうから、不思議なものだ。
蕾は少しずつ膨らみ、ある日突然ほころんでいた。咲き初めの紫陽花は、どの花も色彩が薄い。それが日に日に色を増して行く。毎日色が違うので、毎日見とれてしまう。紫陽花って、美しい花だったんだなあ。
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足を止めて、紫陽花に見とれていると、私の後ろを中学生が通り過ぎる。
彼らは、私の存在など気にも留めていない。ひとりで、或いは友達と並んで、ただ、朝の光を受けて、歩いていく。
彼らを見ながら、私は想像する。
今、彼らは、紫陽花を心に留めていたりはしないかもしれない。それでも、学校へ向かう紫陽花の並木道の情景は、まだ形の定まらない、やわらかい心に、深く刻まれるだろうな、と。
多分、何年も何年も経った後で、彼らは、この紫陽花の並木道を、懐かしく大切な情景として、思い返すのだろうな、と。
彼らだけではない。
きっとこの先、私も、紫陽花が咲く度に、世界が大きく動こうとしているこの時間を、思い出すだろう。
何年も何年も経っても、きっと。
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。