見出し画像

遠い電車の子守唄

 子供の頃、「21世紀」という言葉には、浪漫があった。

 実際に21世紀を迎えてから、二十年近く時間が経ったけれど、それでも今はまだ、車は空を飛ばないし、透明チューブの超高速道路も無いし、誰も銀色の服なんて着ていない。

 でも、空想していた未来と同じくらい、浪漫のある現実を生きている。

 二十代後半以降に知り合って、深い友人になった人達は、ほぼ全員、インターネットが無かったら、そもそも知り合う事も無かった人達だ。

 もしも、小学校六年生くらいの私が、この事を知ったら、なんて言うだろう。この先、友達と呼べる人に巡り合う事はないのかもしれない。そんな軽い絶望を抱きながら、本にかじりついていた子供は。

 大人になったら、「コンピューター」を操って、遠くに住む人達とお喋りをして、たくさんの人と友達になれると知ったら、驚くだろうか。喜ぶだろうか。

 ---★---

 とは言え、今まで一度も行った事の無い県に、新しい友達が出来るなんて、去年の今頃は、想像もしていなかった。

 人生は予測がつかないから面白い。

 ---★---

 最近始めたSNSで、話をするようになって、親しくなった人の何人かが、私の町から遠い場所で集まるという。

 一度も顔を合わせた事が無い人が殆どだ。でも、普段の会話の中で、人となりが伝わってきて、心惹かれる。会ってみたい。

 私はもう小学生ではない。四十代半ばを過ぎた大人だ。人生の折り返し地点を過ぎた今だからこそ、会いたい人には、会える時に会っておかないと、後悔すると知っている。

 思い切って、私も参加を申し入れてみたら、快諾された。

 冒険の始まりだ。

 ---★---

 新幹線を乗り継いで、辿り着いた駅は、陽射しが強かった。

 在来線に乗り換えて、待ち合わせの駅まで向かう。車窓は次第に緑が濃くなっていく。陽射しの色も、緑の色も、私の町とは違う。

 そうか、こういう風景の中で、日々を過ごしているんだな。

 まだ顔を知らない、心惹かれる人達を、少し深く理解したような気持ちになる。

 ---★---

「こんにちは。私、Xと言います」

「ああっ! Xさん! 私、はこべです!」

「わあ! はこべちゃん? 初めまして!」

 初対面なのに、女子高校生同士みたいに抱き合ってしまった。お互いに、やっと会えた、という思いが強くて。

 彼女の文字は、いつも冷静で温かい。SNSで、誰かが悩み事を語り始めると、そっと寄り添うけれど、その悩みに引きずられたりはしない。短くてユーモアのある言葉で、場の空気を、ふっ、と変える。

 誰かの悩み事に、つい、感情移入してしまって、励まそうとするあまり、よく空回りする私は、彼女の冷静さと優しさに、いつも感心してばかりだ。

 文字から受ける印象と、本人に直接会って受ける印象は、一致していた。優しくて、いたずらっぽい瞳。

 アカウントを作ったばかりで、勝手が分からず、手探りで入れたコメントに、優しく返信をくれたのが、彼女だった。ずっとお礼を言いたかった。

 ---★---

「あ、Zさんですね! SNSでお顔を拝見してましたよ」

「はい、Zですが」

「私、はこべです」

「ああ、はこべさんですか」

 一瞬、警戒した顔をされたけれど、名乗ったら、表情は柔らかくなった。

 この人もまた、冷静で温かい文字を書く人だ。加えて、反射神経と言葉の選び方のセンスが秀逸だ。

 真面目なコメントからギャグまで、誰に対しても、瞬時に的確な言葉を返している。なかなかそのスピードにはついていけないけれど、コメントを見ているだけでも、とても勉強になる。

 文字から受ける印象よりも、ずっと繊細な人だな、と思った。基本的には笑顔が明るく、冗談も沢山言うけれど、瞳はどこか静かだ。印象は少し変わったけれど、かえって腑に落ちるところがあった。

 一度、落ち込んでいた時に、SNSで軽く愚痴めいた発言をした事があった。その時に、的確にコメントを返してくれたのがこの人だった。

 本人は忘れているかもしれない。本当になんて事の無い一言だったから。でも、何かの痛みを知っている事を感じられて、その時の私に響いた。

 ---★---

 集まってきた人達は、ほぼ全員が初対面だった。だけど、顔を合わせた瞬間から、自然に話が弾んだ。SNSで普段会話をしていて、お互いの人となりを、何となく分かっているからだろう。

  ああ、やっぱりこういう人なんだな、この人らしいなあ、と、得心する瞬間がある。そして、へえ、この人は、実はこんな風に笑うんだ、意外だけど、やっぱりこの人らしいなあ、と、発見する瞬間がある。

 話題は取りとめもなく、あちこちへ飛んだ。趣味の事、仕事の事、家族の事、そして、人生観のような抽象的な話まで。

 ---★---

「Xさん、私、Xさんにお礼を言いたいの」

「お礼? 何の?」

 いたずらっぽい瞳の彼女は、不思議そうな顔をした。

「ほら、私、SNSを始めたばかりの時、勝手が全然分からなくて、すごく挙動不審だったでしょ?」

「そうだった?」

「そうだったの。コメントを入れるのも、そーっと入れてた感じ。でも、Xさんがコメント返してくれて、あ、私、ここに居ていいんだって、思えたんだよね」

「ごめん。私、何て返したか、全然覚えてない」

 彼女はにっこりとした。そして言葉を続けた。

「でも確かに、初めましての人を見かけたら、ご挨拶したりはしてた。せっかく勇気を出してコメントしたのに、誰も反応しなかったら、その場を離れちゃう人もいると思うから。それは、やっぱり勿体無いと思うし」

「そうだね、私はすごく嬉しかったな。ありがとう」

「それなら良かった。こういうの、鬱陶しく思う人も居るから、良し悪しだと思うけどね」

 彼女のいたずらっぽい瞳が、優しく光った。

 ---★---

 とにかく暑い一日だった。私の住む町もそれなりに暑い日が続いていたけれど、気温も陽射しも比べ物にならない。

 着いたのはお昼だったのに、気が付くと、随分日が傾いていた。それでもまだ、涼しくはならない。

 日が完全に落ちたら、何人かが帰り支度を始めた。

 だけど、まだまだ話し足りない。

 ---★---

「Zさん、私、Zさんにお礼を申し上げたい事があるんです」

「何ですか?」

 静かな瞳のこの人もまた、不思議そうな顔をした。

「私、ちょっと落ち込んでいた時期があって。それっぽい事を吐き出した時に、Zさんがかけて下さった言葉で、かなり救われたんですよ。多分、覚えていらっしゃらないと思うけど」

「ああ、覚えてますよ」

「あ、覚えてましたか」

「でもあれは、私が何かした訳じゃなくて、ご自身で答えを見つけられたんだと思いますよ」

「そうですか? そんな風には思えないけど」

「多分、ご自身の中に、既に答えをお持ちだったんだと思いますよ。もし、私が何かを言ったとしても、ご自身の中に何も答えが無かったら、響きませんからね」

「そうでしょうか?」

「例えばね、初対面の人と話す時、大抵の人は、手のひらを下にして、膝の上で握り締めている事が多いそうですよ」

 思わず自分の手を見た。膝の上で、手のひらを下にして握りしめている。

「でも、出来る営業の人なんかは、手のひらを上にして、手を開いて相手に対峙するそうです。商談はそのほうがうまくいくことが多いそうです」

 そう言われて、膝の上で、手のひらを上にして、手を開いてみた。

「つまりね、手のひらの中に、答えをすでに握りしめてるって事かもしれませんよね。握りしめてしまうと、自分では見えなくて、答えを持っていることに、気が付かない事もあるかもしれません。でもそれは、ちょっとしたきっかけで、ご自身で見つける事が出来るんですよ」

 つい、自分の手のひらをまじまじと見た。比喩だと分かっているのに。

「だから、多分、ご自身の手の中に、あらかじめ答えがあったんですよ。そして、ふと、手のひらを上に向けていたのかもしれない。たまたまそういうタイミングだったって事です。特別に私が何かした訳じゃないですよ」

「それでも、そうであったとしても、きっかけが無ければ、やっぱり答えには気が付けなかったと思います。だからやっぱり、お礼を言わせてください。私がお礼を言いたいだけなんです。ありがとうございます」

 こういう物言いは、あまりスマートではないかもしれない。苦笑いをされてしまった。

「もうひとつ、例え話をしましょうか?」

「はい」

「同じギターを二台並べて、片方の弦を弾くと、もう片方のギターも、同じ音が鳴ったりする事があるんですよ」

「そうなんですか? 知らなかったです」

「結局、自分の中に同じようなものがあるから、響くって事です」

 うまく言葉を返せなかった。やはり、何か痛みを抱えている人なのだろう。そこに立ち入る事は出来ないけれど。

「だから、もし、どうしてもお礼を言いたいなら、誰か、自分と同じような人を見かけた時に、その人に返してあげてください。私も実は、違う人から受け取ったものを、返しているだけなんですよ」

 苦笑いをしているけれど、瞳は静かで優しかった。スマートではない私の言葉を、それでも受け取ってくれたのだろう。

 お礼を言っただけなのに、私も何かを受け取った。この人には返せない。誰かに手渡していかなくてはいけない。

 ---★---

 日がすっかり落ちて、しばらく経った頃には、多少は暑さもしのぎやすくはなっていた。いたずらっぽい瞳の彼女と、何となくふたりで外に出た。

 話をしながら夜風に当たっていたら、不意に彼女の腕に、ふわっと蛾が止まった。見た事の無い蛾だった。真っ黒な羽が美しかった。

「あら……。実は、私ね、虫に好かれやすいんです」

 彼女は動じた様子もなく、自分に止まった蛾を眺めていた。

「ああ、これは、水が欲しいのね」

「水?」

「これだけ暑いとね、虫も水を求めて、人に止まったりするの。汗も水分だから。ん? つまり、私がしっとりしてるって事かな。こらこら」

 彼女はくすくす笑いながら、しばらく黒い蛾を見ていた。黒い蛾は安心したようにじっとしていた。

「はい、もういいでしょ。行きなさい」

 彼女は空に向かって腕を伸ばした。でも黒い蛾は、いやいやをするように身じろぎするだけで、彼女から離れようとしなかった。

「あらら。これは、水場の近くに行かないと駄目かな」

 彼女は空に腕を伸ばしたまま、優しく言った。

 私が蛾だとしても、私ではなく彼女に止まるだろう。そう思った。

 どうにか水場を見つけて、黒い蛾をそこに移すまで、私は彼女と黒い蛾に見とれていた。

 宵闇の中に伸ばしていた白い腕と、アクセサリのような黒い蛾の情景は、多分この先も、私の中に住み着いていくのだろう。

 ---★---

 宿泊先にたどり着いたのは、チェックインが可能な時間ぎりぎりの深夜だった。

 気持ちは高揚していたけれど、流石に体は疲弊していた。一度椅子に座ってしまったら、なかなか立てない。気力で入浴を済ませ、どうにか自分をベッドに押し込んだ。

 眠りに落ちる手前で、淋しさが押し寄せてきた。

 今日会う事が出来たのは、友達を作れずに、途方に暮れていた子供の頃の私が、こんな友達に出会えたらいいな、と、夢見ていたような人たちだ。

 それでは、また、と、言葉を交わして別れた。また、お会いしましょう、と。その言葉は嘘じゃない。

 だけど、この町は、そんなに簡単に来られる場所じゃない。

 また会えるだろうか。

 ---★---

 明け方、遠い電車の音で、眠りから覚めた。一瞬、どこにいるのか分からなかった。

 真っ白な天井と壁と、真っ白なシーツ、無機質なホテルの部屋の中に、遠い電車の音は、優しく響いた。

 ああ、ここは、大きな駅に隣接したホテルだ。昨日、生まれて初めて訪れた町だ。昨日の楽しかった時間を、ひとりで思い返す。

 だけど、ひとりじゃない。

 電車の音は人の気配だ。大切な人たちが住む町につながっている。

 そして、帰るべき場所にも。

 ---★---

 人生の折り返し地点を過ぎた今、大切な人たちと会える時間には、限りがある事を知っている。

 会いたい人には、これからも会いに出かけて行こう。

 そして大好きな我が家に帰ろう。

 ---★---

 チェックアウトまでには、まだ随分時間がある。

 もう少しだけ、眠る事にした。遠い電車の音を聞きながら。

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。