波を鳴らして【小説】
第一部 山の風
夏休みに、妙子さんの家に行くのは、楽しみでもあり、憂鬱でもあった。
大好きな妙子さんの家は、山の上で、小学生の私は、乗り物に弱かったから。
新幹線を降りた後で、カーブの多い山道を走るバスで過ごす二時間は、永遠の様に長かった。
「すみれ、見て。ほら、もうすぐ滝が見えるよ」
母が、私の気を紛らわそうと、窓の外を指す。私は黙ってうなずく。
本当は、うなずくのも辛くて、景色どころでは無いけれど。
★
「いらっしゃい、さやかちゃん、すみれちゃん」
妙子さんは、いつも、白髪混じりの髪をお下げにして、木綿のゆったりしたワンピースを着ている。
「すみれちゃんは、車酔いね? お布団敷いておいたから、休みなさい」
青い顔で玄関にへたり込む私に、妙子さんは、おっとりと声を掛ける。
私は挨拶もそこそこに、座敷に敷かれた布団に転がり込む。
ちりん、ちりちり、ちりん。
妙子さんのお気に入りの風鈴を、山の清涼な空気が揺らす。
風鈴の音色を聴きながら、糊の効いたシーツの上で微睡むと、ようやく、私の夏休みが始まる。
★
妙子さんは、祖父の再婚相手だ。母とは八歳しか違わない。
四歳の時に、祖母を亡くした母は、ずっと、祖父と二人で生きてきた。
祖父が電撃的に妙子さんとの再婚を決めた時、母は、高校生だった。高校卒業と共に、母は実家を離れ、そのまま長く戻らなかった。
母が再び実家の敷居を跨いだのは、祖父が余命宣告を受けた時だった。
妙子さんが献身的に祖父を介護し、見送った事で、妙子さんと母の関係性は、変化したらしい。
祖父が亡くなった後も、母は、毎年里帰りするようになる。結婚せずに私を産んだ後も、ずっと。
★
ちりん、ちりちり、ちりん。
風鈴の音色で目を覚ますと、大抵、夕暮れ時だった。
妙子さんと母が、台所に立っている気配がする。夕餉のいい匂いが漂ってくる。
「お腹空いたあ!」
台所に飛び込むと、妙子さんも母も、私を見て、ほっとした顔になる。
「全く、さっきまで、バス酔いで寝込んでいた人とは思えないよ」
母が憎まれ口を叩きながら、にやりとする。
「良かった。すみれちゃんといっぱいお話しするの、とっても楽しみにしてたの」
妙子さんが、おっとりと笑う。
夕餉の献立は、豪華なものでは無かったけれど、私の好物ばかりが並んでいた。
思い返すと、何て贅沢な時間だったのだろう。
★
高校以降の夏休みに、妙子さんの家に行かなくなったのは、つまらない理由だ。
一言で言うと、恋だ。
高校の吹奏楽部で出会った彼に、夢中になった。
彼も私と同じ気持ちでいると感じられたのに、部内恋愛が禁止だった事が、余計に気持ちに拍車をかけたのかもしれない。
コンクール出場へ向けて、夏休み中も部活はあった。自由参加ではあったけれど、私も彼も、全日程の参加を決めた。
妙子さんの家には行かないと告げた時、母は驚いていたが、短く「そう」とだけ言った。
私が行かないと知った時、妙子さんはどんな気持ちになったのだろうか?
今、その事を思うと、胸が痛い。当時は、ただ、恋に夢中だったけれど。
第二部 波の音
「いらっしゃい、すみれちゃん」
十年振りに会った妙子さんは、白髪が増えたけれど、相変わらずお下げ髪にして、木綿のゆったりしたワンピースを着ていた。
「車酔いはしてない?」
「大丈夫。自分で運転するようになったら、車酔いしなくなったから」
「すみれちゃん、運転する歳になってるのね」
妙子さんの口調は、しみじみとしていた。
「突然押しかけて、ごめんなさい。友達と旅行に行く予定だったけど、色々あって、行けなくなって。でも、折角休みを取ったから、夏休みらしい事をしたくて。一番夏休みらしい事って何だろうって考えたら、妙子さんに会いたくなったんだよね」
私の言葉は、正確ではない。
正確に言えば、旅行に行く筈だったのは、友達とではない。高校卒業と同時に、正式に恋人になった彼とだ。
旅行に行けなくなった理由は、彼に好きな人が出来て、私と別れたからだ。
でも、妙子さんに、無性に会いたくなったのは、本当の事だ。
「まあ、何て嬉しい事を言ってくれるの。何のお構いも出来ないけど、ゆっくりしてって」
妙子さんは、本当に嬉しそうに笑った。
★
ちりん、ちりちり、ちりん。
風鈴の音で目覚めると、障子の向こうに、朝の光が透けていた。
時計は六時を指している。私にしては早い起床なのに、すっきりと目が覚めていて、よく眠れたという実感がある。
このところ、ずっと、うまく眠れなかった。彼の夢ばかり見て、夜中に何度も目が覚めた。
久しぶりに夢を見ずに眠れた。その事が嬉しかった。
台所から、妙子さんの包丁の音が聴こえる。私は起き上がり、台所に向かった。
「妙子さん、おはよう」
「おはよう、随分早起きね」
「手伝うよ」
私が台所に立つと、妙子さんは手を止めて、私を見た。
「すみれちゃん、本当に大人になったのね」
「そうだよ。車酔いもしないし、包丁も使えるよ」
「ほんとね。ああ、嬉しいなあ。すみれちゃん、どうしてるかなって、ずっと思っていたから。素敵な大人になって、また顔を見せてくれて、とっても嬉しいの。きっと、すみれちゃんが思っているより、ずっと嬉しいのよ」
妙子さんの声は弾んでいた。私も弾んだ気持ちになった。
★
山の上の家は、涼しい。真夏でも、朝と夕方はエアコンが要らないくらいだ。
朝一番と、夕暮れ時に、妙子さんは、家中の建具を開け放つ。
ちりん、ちりちり、ちりん。
山の風が、風鈴を鳴らす。
涼やかな音色を聴くと、子どもの頃の夏休みの情景が幾つも蘇る。
彼と出会う前の、ちいさな私の幸せな記憶。
妙子さんは、私に何があったのか、薄々察していただろう。母から何か聞いていたかもしれない。でも、私の事情には何も触れなかった。
ただ、献立は全て、私の好物ばかりを選んでくれた。とてもさり気なく。
★
「この風鈴の音を聴くと、夏休みって感じがするなあ」
休みの最後の日、私がしみじみと言うと、妙子さんはおっとりと首を傾げた。
「そう?」
「うん、山の風の音だね。涼しくて、気持ちが良くて、優しくて」
「山の風の音?」
妙子さんは、目を丸くして、私を見つめた。
「なるほどね。すみれちゃんにとっては、この音は、山の風の音なのね」
「え? 妙子さんにとっては、違うの?」
私の問いかけに、妙子さんは少し黙り、そして、ぽつりと言った。
「この音は、私にとっては、波の音なの」
「波の音?」
今度は、私が目を丸くする番だった。
★
「私ね、海辺の小さな町で生まれ育ったの。町のどこに居ても、波の音が聴こえてた」
妙子さんは遠い目をした。初めて見る顔だ。
「初めて聞いた」
「そうね。私、生まれた町には、良い思い出が無くて。結婚した時に持ってきたのは、この風鈴だけ。他の過去は全部、置いてきてしまったの」
私は、何も言葉を返せなかった。そんな私を見て、妙子さんは、遠い目をやめて、笑顔になった。
「私ね、すみれちゃんのおじいちゃんが、今でも大好き。あの人と一緒に、ここで暮らし始めて、やっと私の本当の人生が始まったの。山の上の暮らしは、海辺の暮らしより、私の性に合っていると思う。……でも、そうね」
妙子さんは、再び遠い目をした。
「良い思い出は無いはずなのに、風鈴の音色を聴くと、波の音を思い出して、少し元気になれるの。不思議なものね」
妙子さんは、そう言うと、遠い目で微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
ちりん、ちりちり、ちりん。
涼しい風が、風鈴を揺らした。
★
妙子さんが亡くなったのは、それから、半年後の事だった。
回覧板が止まっている事を不審に思った町内会の人が、台所で倒れている妙子さんを見つけたそうだ。死因は脳溢血で、恐らくは突然の事だっただろう、との診断だった。
何か予感があったのだろうか。妙子さんは遺言書を残していた。相続人に指定されていたのは、母と私だった。
相続にまつわる様々な手続きの中で分かったのは、妙子さんの両親は、妙子さんが幼い頃に亡くなっていて、兄弟も居ないという事だけだった。
——他の過去は全部、置いてきてしまったの。
遠い目の微笑みを思い出す。
★
今、妙子さんの風鈴は、私の手元にある。
アパートの寝室に飾られた風鈴を、私は時々、手で揺らしてみる
ちりん、ちりちり、ちりん。
山から遠い町の、小さなアパートの中に、山の風の気配を聴いて、私は、少し元気になる。
もしかしたら、妙子さんが、海から遠い山の上で、波の音の気配を聴いて、少し元気になったように。
★たけねこさんプロフィール
お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。