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殺人は他人事か?

私の中には、溢れて止まらない愛情と、どうしようもない破壊欲がある。基本的には、世界を深く愛していて、できれば世界と一体化したい。世界中の生きとし生ける人々が、できるだけ幸せであってほしいと願う。

だけどどこかで、柔らかい心の片隅の奥らへんで、全部壊れてしまえばいいと、絶望しきっている自分もいるように思う。全てを破壊して自分自身も死んでしまいたい、そんな欲動だ。本当に微かな鼓動を持つこの死の欲動が、もしも存在感を放ち、私の心を支配しようものなら、私は私の愛するものを燃やし、太陽が眩しいというだけで殺人に手を染めるかもそれない。こんなあり得ないようなことも、全くあり得ないとは言い切れない。

この死の欲動は、実は誰しも持っているものじゃないだろうか、と思う。ただ、気づいていないだけで、あまりに存在感がないだけで。
初めて三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ時、誰しもがこうなることはできるのものを心の奥底に持っているのではないかと思い、酷く恐ろしい気持ちになったのを覚えている。これは私の気のせいだろうか?

凶悪犯罪の記事を読むたび、吐きそうになるし、涙が止まらない。その時私は必ず被害者側に立って考えている。だけど時々、本当に加害者側のことは自分にとって他人事なのか、と考えてみると、そうではないのかもしれない、と肝を冷やす。

私はたまたま、生きるとか死ぬとか、そういうことに敏感な人間だ。心から幸せな瞬間は必ず「生きててよかった」と思うし、周囲の人が死ぬんじゃないかとすぐに怖くなるし、道端で刺されるのではないかと怖くなるし、漫然と死を考えることもある。昔からある、殺されたり追いかけられる悪夢は今も続いている。だから、死の欲動の存在に気づきやすいのも、まあそんなに違和感のないことではある。

しかし私がこういう人間であることも単なる偶然だ。もしもあなたが全く違う人生を歩んできた人だとしても、これから何か大きなトラウマ体験をしたら、こうなる可能性は大いにあり得るだろう。トラウマ体験に限らない。大切な何かを失ったり、社会に対して大きな絶望を抱いた時、私たちはどうなるのだろうか。

その時、凶悪殺人犯と自分とは、何が違うのだろうか。果たして本当に、全くの他人事だと言えるのだろうか。

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