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想像力と感性は変化するのか

Smileです。
今日は、ある写真がきっかけでふと感じたことを書きます。
そもそも、書くことが好きな人は、想像することが好きな人だと思っていて、私と同じような感覚を持つ人にも出会いやすいのではと考えたり。

とにかく、そんなこんなを思うきっかけとなったのが、私が撮った2つの写真。

想像してみて

①
②

みなさんはこの写真を見て、何かイメージするものがあるだろうか?
①上の写真はある島の海沿いにあった岩。
 私には口を開けた恐竜の頭に見えた!
②下の写真は、田舎の叔母が育てた大根。
 人が足を交差させているように見えた。

同じように見えてる人がいるかな?

実はこのふたつの写真を娘と息子に送ったところ、反応が正反対。
娘は、みえるみえる!口開けてる!と私と同様の反応で、②の大根への食いつきも上々。

一方息子は、①は、全く見えない。こじつけ。というのだ…②の写真に至っては既読スルーで反応なし!

なぜこうも反応が違うのか?
男性は論理的で女性は感情的だから?(いまだにそう思っている人がいるかも疑問)

10年前のこの子たちを知っていて、久しぶりに再会した人がいたら、真逆の反応を考えただろうと思う。

子ども時代の2人

息子と娘の性格は真逆で特徴的だった。

娘は幼い頃、土の上を歩くのが苦手な子だった。妙だと思われるだろうが、いつからか舗装されていない道を歩く時につま先で歩くようになった。尋ねると「アリさんを踏むから」と言った。入園の時にそのことを伝えると、優しいだけだから大丈夫、と言われた。園でも1学期間は毎日上履きを持って帰ってきた。お絵描きや工作が得意で手先も器用だった。頭の回転も早く、子ども用のパズルも得意で、普通に遊ぶことに飽きて、枠の外で裏返しでパズルを並べて遊ぶような子だった。

そんな娘の大きな転機は、幼稚園と小学校の担任の先生との出会いではと感じている。特に幼稚園の先生は、私でも憧れるような素晴らしい人間性の方だった。
決して娘の「人と違う」習性を否定することなく、自然と関わることの楽しさ、感情を体で表す楽しさを、教えてくださった。
園を卒業する頃には、園庭を誰よりもはつらつと走りまわる子になっていた。
小学校で出会った担任は、ちょうど年度がわりに原因不明の高熱で登校できなかったとき、1週間自宅に通い詰めてくださった。会えない日にも玄関で声をかけ、時には新しいクラスメイトを連れてきた。
おかげで娘は1週間以上遅れて入った新しいクラスにも、すんなりと馴染むことができた。ただ、反面、この頃から娘は頑張る姿を誰かに見せることを避けていたと思う。なかなか乗れなかった1輪車も、誰もいない時間を見計らって外に出て練習し、人が来たらやめる、を繰り返して自力で乗れるようになった。必死に練習していたにもかかわらず、何もなかったように振る舞うのだ。褒められ下手なのもこの頃からかもしれない。
積極性はあり、決め事では自分で立候補して役をすることも多かった。今思うと誰かに認めてほしい気持ちが強い子だったかもらしれない。

娘と息子は1歳半違いで、学年は2個違った。娘の幼稚園の送迎に行っていたため、その間にすでに同級生の友達ができていた。そのため息子もこの時期に娘の担任の先生からの影響を受けていたと思う。
娘とは逆に、虫取りが大好きで「虫博士」と呼ばれていた。上靴は、あればいい、なくても裸足で大丈夫な大雑把な子だった。しかし感情は豊かで、その言葉にこの子は天才じゃないかと思うことがあった。
今でも覚えている言葉がある。ある雨の日に言った言葉。

「かあさん、しってる?雨は空のなみだって」

どこで誰に聞いたのか本人もよくわかっていなかったが、これをチョイスするセンスよ!
このまま成長してら詩人だ…と思ったが、ちがった。どう軌道修正が入ったのか。

娘が大人との関わりで成長したとするなら、息子は友達だった。息子には「フィーリングが合う」仲間がいた。
2人とも子ども時代は自然の多い島で過ごしていたが、特に息子の遊びは度肝を抜かれた。ザリガニ釣りに行ったはずが、迎えに行くと友達と2人泥だらけで沼に浸かっていた。学校帰りに自分の頭より大きなカメを持ってくることもあった。あ、娘も傘になめくじいっぱい乗せてきたことがあったな。
飼いたいというので、それは沼の主だから沼に返そうと説得した。代わりに沼でカメを釣って持ち帰った。
余談だが、我が家では以来ペットはカメで、今5匹めのカメを飼っている。うち3匹が脱走したため、今のカメは大きくならない逃げないカメだ。
発想力も面白かった。数字の問題で、アイスクリームの個数を問われているのに、息子の答えは、【アイスは( ちょ) こ】
宿題でノートに1ページ学習というのがあったが、その半分は問題についての所感。1週間後の担任コメントで、【問題の感想はいりません!】に笑った。

息子の太陽のような明るさが、娘を一歩引かせる月のような立場にさせていた部分もあるかもしれない。
我が子だからということを抜きにしても、面白い2人だと思っていた。

変化はどこから

いかがですか?
子ども時代の2人からすると、最初の写真の反応が逆のような気がしません?

親である私ですら、この反応に驚きます。
特に息子。これが恐竜に見えないのか…と少しがっかりした自分。娘には、そうだよね!と共感を上乗せしている自分。

でも、気づいたのです。
子どもたちが変わったのではなく、自分が変わったことに。

それだけが正しいという固定観念に囚われているのは自分。
この写真が恐竜の頭に見える人が全てじゃない。ただの岩に見える人も多い。この大根が人の足に見えなくても当然。答えは一つではない。

昔の自分は子どもの特性が違っていても、当然のように受容していたのでは?自分の予想と離れていても笑って過ごしていたのでは?
違った2人を楽しいと思っていたのでは?

時が経てば人は変わる。
だけど根っこではずっと共通のものが流れていると思ってる。
事実、なんだかんだと言いつつも、子どもたちは私に付き合ってどんな形にしろ返信をくれる。

変化したのは私。
きっと毎日の慌ただしさで余裕がなくなっていたんだと思う。
たしかに大好きな書くことさえこの何年していなかったんだ。

変化したのは私。
まさかこの歳で自分の子どもより若いアーティストを推すことになろうとは。
でも、この変化こそが、本来の自分を取り戻すきっかけにもなったのだから不思議な巡り合わせ。

道端の花に目を向ける瞬間をくれた存在。
空を見上げて雲の流れを見る時間をくれた存在。
音楽が体に染み渡る感覚を呼び覚ましてくれた存在。

変わることは無くなることではなく、取り戻すことでもあることを気づかせてくれた存在。
もちろん全てがそうとは限らない。答えはひとつではないのだから。

私は今、恐竜の頭にしか見えない岩の写真を見て、他の見え方があるのではと向きを変え、目を細め、試行錯誤している。
違うものが見えたら、人生はもっと楽しくなる気がするから。

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