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うつ病入院体験記


20歳、大学2年の春休みに入院

私のうつ病は、責任の重い学生団体での活動、孤独な大学生活の中で徐々に悪化していった。そして2023年12月、私は初めて向精神薬のオーバードーズをした。もう楽になりたい、その一心だった。
そして2024年3月、パートナーとの関係に悩み、起き上がれず声も出なくなる。最後には救急搬送され、医療保護入院(強制入院)となるのだった。

入院1週間前

待ちに待った、彼の誕生日。プレゼントは張り切って4ヶ月前から準備していた。夕食のレストランは彼の好きな横浜の夜景の見えるビルの中で、1ヶ月前から予約した。昼間は表参道の美容室で彼の好きな髪型に切ってもらって、私は上機嫌だった。そしていつも通りプロ野球のオープン戦を見て、のんびりと横浜に向かった。

誕生日だというのに、横浜駅で待ち合わせた彼は不機嫌だった。私と目を合わせず、私の一歩前をすたすた歩いた。大人になると、誕生日もそんなに嬉しくないものなのかな?そんな話を愛想笑いで話す一方で、私はそこはかとない不安を感じた。

彼には普段から多大な迷惑をかけていた。精神的に弱っていた私は、親切にしてくれる彼に依存していた。そして彼が自分から離れていく予感がすると泣き喚いて、自分の命を人質に彼を引き留めた。彼はそんな私にうんざりして、変わる姿勢を見せてくれないと付き合いきれない、と言われた。彼を苦しめるのは私自身か、病気なのか。彼の言葉は余計に私を苦しめていた。そんな不穏な空気の中迎えた彼の誕生日であった。

食事をしながら話をすると、意外にも話は盛り上がった。価値観が全く違う二人だが、今この瞬間はお互いに楽しいものだ。私はそう確信していた。話が盛り上がったからかわからないけれど、彼は突然私のことを「お前」と呼んだ。親から虐待を受けていた時期もあった私は、少しビクッとしてしまった。

プレゼントを渡すと、彼は表情を変えずに、「ありがとう」とだけ言った。「ごめんだけど、ホワイトデーは無いよ。」正直に無いと言ってくれるのも、プレゼントへの反応が薄いのも彼らしいなと思った一方で、私は少し悲しかった。

店に入ったのが早かったので夜そんなに遅くない時間に店を出、ほのかな期待を持ちながら彼にそっと話しかけた。「まだお腹空いてるかな、なんて思ったんだけど」
誕生日はうちに泊まっていってねと事前にLINEしていた。喧嘩中だったのでもちろん彼の返事はなかった。でも、今日こんなに会話が盛り上がったのだから、今夜はうちに一緒に帰って、きっと前のような関係に戻れる。そんな淡い希望を抱いていた。しかし、その期待が私の心をズタズタにしたのだった。

私はまだ彼が怖かった。何を考えているかわからなかった。彼はほとんど言葉を発さないまま二人で横浜駅の改札に向かった。ここで何も言わなければ私たちは解散してしまうだろう、とわかっていたけれど、断られるのが怖くて何も言えなかった。

「じゃあまたね」

彼はそれだけ言って私の返事も聞かずに改札の中へ消えていった。私は力が抜けたように柱に寄りかかっていたが、そのまましゃがみ込んでしまった。
彼を想って一生懸命準備した誕生日だった。「サプライズがしょぼかったらブッ殺すからな」彼らしい言葉を胸に、絶対に喜んでもらおうと思っていた。でももう終わってしまった。もう私は彼には見捨てられていて、全て私がいけなかったのだ。

そうだ、もう帰らないと。でも東横線ってどこだっけ…。誰もいないアパートに一人でどうやって帰るんだっけ…。頭の中がぐちゃぐちゃになって、私はその場から動けなくなった。どうして私は駅にいるんだっけ。ああそうか、自分を殺しに来たんだ。線路に飛び込むために今日横浜まで来たんだ。あれ、ここって横浜だっけ…。視界がぐるぐるし始め、急いで私は頓服の向精神薬を飲んだら、立ち上がれなくなってしまった。

気づいたら私は警察署の中にいた。私の入口のそばの長椅子に腰掛け、まるで犯罪者のように警察官が私を囲んで見張っていた。電話が鳴り止まなかった。見ると発信者に彼の名前があり、私は狂ったように泣き叫んだ。「止めて…止めてよ!」警察官の一人が、「出たくないんなら、出なくてもいいんじゃない?」と優しく諭した。その言葉に安心して、私は自分の鞄を抱いて下を向き、白い鞄をずっと見つめていた。

母と兄が迎えに来た。母は私の腕を引っ張り「お世話になりました」と言って早足で警察署を出た。
帰りの車の中、兄が後部座席の私の隣に座った。会話は少なかったが、一つだけ印象に残った言葉がある。

「smiちゃんが野球好きになってくれて僕は嬉しいんだ。」

私は何も言わなかった。私にとって、私の言葉も、私の存在も何も意味を持たなかった。私の声と言葉は、横浜に置いてきてしまったような気がした。

母は私が声を出せないことに気づき、騒いだ。私は母のその様子を見るのも嫌で、翌日から実家の布団から動かなくなった。

一軒目に向かった病院では、

「男女の恋愛の悩みはどうしようもないからねぇ…そんなに死にたい死にたい言ったら入院になっちゃうよ?」ふっと笑って脅すように言われた。
一緒に行った兄が帰りの車で泣いていたのをよく覚えている。

二軒目に向かった病院で、はっきりと入院を勧められた。病院の候補を挙げ、診断書も私が書きますから、と先生は言った。そう、最初は任意入院の予定だった。

私はもう入院して、この世には戻ってこないつもりでいた。サークルと知り合いに最後の連絡を済ませると、たくさんのメッセージが来たが、読む気力も残っていなかった。

それから数日、私は実家の布団で眠り続ける日々を過ごした。兄と行く予定だった野球観戦に行けなくて虚しく感じたことだけ覚えている。母親は私の自殺を恐れ、車の中ではチャイルドロックをかけ、私の頓服薬は母親によって隠された。

しかし私は知っていたのだ、母親の服用している頓服薬の場所を。私と同じものを使っていた。

入院日

もう自分の病気を治したいとも思わなかった。なぜなら彼に見捨てられたから。私は頓服薬を20粒一気に飲んだ。

口の中をジャラジャラと音がして、小石のようだった。小石のような薬たちを水で流し込み、布団に倒れ込んだ。内臓がズキズキ痛むような感覚がした。薬を体が頑張って処理しているのかな、なんて呑気に考えながら、意識が遠のいていくのを感じた。

「救急車!はやく!」
聞きなれた声が耳の中でこだました。何が起きているのかよくわからなかった。オレンジの服を着た救急隊員にされるがままに担架に乗せられ、階段を降りた。担架で階段を降りられるのがすごいなぁなんてまたまた呑気なことを考えていた。
「今日は何月何日の何曜日ですか?」そんな会話を交わした気がする。
「重篤な状態ではありませんから安心してください。受け入れてもらえる病院を探します。」
こうして、予定外の医療保護入院(強制入院)となった。

入院生活の始まり

「smiさんは死にたいという思いが止まず、過量服薬などに至り、医療保護入院となりました。推定入院期間は3ヶ月です。」
薄暗い病室のベッドで、看護師にそう告げられた。私はぼうっとベッドの柵を見つめながら、返事をした。

突然の回復


入院日から3日ほどは、薬のせいかほとんど記憶がない。3日ほど経ったとき、共用スペースでテレビをつけると、ちょうど春のセンバツ高校野球大会が放送されていた。そういえば、兄と行く予定だったプロ野球オープン戦も行けなかったし、彼と約束していた4月のホーム開幕戦も行けなくなっちゃったな。そんなことを考えながらぼうっと高校野球を見ていた。懸命に打線をつなげる、自分より若い高校球児たち。そのひたむきな姿に、私は勇気が出た。

決め手となったのは、兄が持ってきてくれた愛犬の写真だった。その愛くるしい瞳に、早く会いたくなった。そうだ、この子のためなら私、生きていけるじゃない。みるみる力が湧いてきた。

看護師に、「家に帰りたいです。」と真剣な顔で言うと、困ったように笑った。今思えば迷子の子どものような台詞だった。

翌日主治医の回診がきて、回復した旨を伝えると、

「薬が効いてきているんですね。しかしsmiさんには感情の波があるようです。今感情の波を抑える薬を少しずつ量を増やしているので、数週間様子を見る必要があります。」
冷静にそう言われた。

ひたすらに退院を夢見た入院生活

私が今もうつ病に苦しんでいるのは、おそらく入院でゆっくり治療しなかったからだろう。私にとって入院生活は苦痛で、とにかく退院したかったので、元気でなくても回診には「元気です、死にたいとは思ってないです」と答えた。実際、死にたくなる原因である彼や、大学や学生団体、全てから切り離された環境だったので、死にたいと思うはずもなかったのだ。

入院中苦痛だったのは、とにかく眠れなかったこと。一人部屋ではなく5人部屋で、隣の人のいびきや独り言はうるさかった。ベッドにいる間はずっと耳栓をしていなければならなかった。

精神病院でゆっくりと過ぎる時間

朝6時半、夜勤看護師の声掛けとともに電気がつく。眠剤が抜けていない私は二度寝をする。

「smiさん、お食事どうぞ!」7時半、食事担当のスタッフが起こしに来る。のそのそと私は食堂に向かって行き、NHKの朝ドラを観ながら朝食を食べる。

朝食後歯を磨き、回診が来るまで再び寝る。

10時、回診が来て、とにかく私はニコニコする。「来たときと比べて顔色がだいぶ良いね。」仲の良い看護師がにっこりと笑う。

12時まで再び寝ると、昼食の時間になる。食堂の窓際の席に座って、満開の桜の木を眺めながら、切ない気持ちになって昼食を食べる。

15時までベッドで横になっていると、母親が面会にくる。

母親が帰り、16時半に薬を飲んだ後は、再びベッドに横になり、窓に目をやり、水色からラベンダー色、ピンク色、群青色と空が移り変わっていく様子をぼうっと眺める。

気づけば18時、夕食を食べた後は漫画を読んだり、テレビを見たり、はるくんや他の患者さんと話したり、一緒にカードゲームをしたりする。

21時半、就寝の支度を済ませると消灯。一度目を瞑ってみるものの眠れず、日付を超えるくらいに眠剤をナースステーションにもらいに行く。それでも眠れないときは、熱いお茶を注いで食堂の窓際に座る。あの日の横浜の夜景を思い出し、ひとり泣くのだった。
ゆっくりと夜は更け、また眠たい朝が来る。

退院

退院日が来た。母親が迎えに来る10時に合わせてせかせかと支度をし、面会者が来る扉の前で足をぶらぶらさせて座った。優しい中年の患者さん2人が、「よかったね。大学頑張ってね。」と声をかけてくれた。「残念だな…あ、残念だなんて言っちゃだめか。」

およそ1ヶ月ぶりに当たる外の風は、入院した当時よりもずっと温かく、涼しかった。ずっと食堂の窓から見ていた桜は、すっかり散っていた。

それから数日後、私と彼は別れた。愛してほしいという要望に対し、それには応えられないし特定の人に愛を求めること自体が間違っている、と言われた。

私はとっくに、たった一人からの愛を失っていたのだった。

私とうつ病の闘いは続く。



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