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ある新聞記者の歩み 13  会社“倒産”!それでも新聞記者で生きる。

元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書きも13回目となり、前回から政治部の時代に入りました。しかしこの時期、毎日新聞社は、大変な経営危機に見舞われ財界などの支援を受け、倒産を回避する「新旧分離」という荒治療によって危機を乗り越えます。経済部から政治部への転身と同時に会社勤めの“サラリーマン”として、どうやって危機を乗り越えたのでしょうか。政局によって大きく動きが変わる政治部は経済部とまったく違う文化の政治部で活躍する佐々木さんですが、どうそれに対処していったのか。「まあ、それも面白かった」と佐々木さんは言います。(聞き手-校條諭・メディア研究者)


◇激動の政治状況

Q.佐々木さんの政治部時代は激動の感がありますが、会社も事実上の倒産という大変なことになったのですよね?

そうなんです。まず、当時の政治状況を説明しておきましょう。ぼくは政治部に1977(昭和52)年1月から行ったのですが、その直前の前年12月下旬に福田赳夫首相の内閣が成立していました。前回(12回目)で話しましたが、福田首相の番記者をやっていたのですが、この時代は政界では、自民党の総裁候補を出す派閥として三木派、田中角栄派、大平派、福田派を称して、三角大福時代と言われました。時には最後に中(中曽根派)をつけて、三角大福中時代とも言われましたね。中曽根さんが総理大臣になるなんて誰も思わなかった時代です。

ちょっと手元にある年表(「昭和・平成史1926-2011」岩波書店刊)を見させてください。え~と、田中角栄が首相となったのが72(昭和47)年7月ですね。先ごろ亡くなった評論家の立花隆が“田中金脈問題”を月刊文藝春秋(74年11月号)で暴露、田中首相は辞任します。そのあと自民党リベラル派代表格の三木武夫首相となるんですね。

三木内閣の時代、田中前首相がロッキード事件で逮捕(76年7月)されます。三木が田中逮捕を許したというので、自民党は大騒ぎ、保守本流の福田首相になるわけです。まさか政治部に行くなんて思いもしなかったので、「ダイナミックに政治の世界は動いているな―」という対岸の火事を見ているような感じでしたね。

この年の9月にバングラデシュの首都ダッカで赤軍派によるハイジャック事件が起きます。前年の8月に三木内閣当時、マレーシアのクアラルンプールのスエーデン大使館を占拠しました。そして、人質と交換に日本の刑務所にいる過激派の釈放を要求して成功します。次にダッカでハイジャック事件を起こしたわけです。そこで福田首相が刑務所にいた9人を人質の身代わりに釈放しました。「人命は地球よりも重い」という言葉を発したことを憶えています。そういう時代でした。

クアラルンプール事件の時にも収監されていた5人の服役中の過激派が釈放されるのですが、この中に、僕が水戸支局時代のことを話したところにも出てきますが、茨城大学全共闘のメンバーで、取材を通して知っていた赤軍派の松田久(今も指名手配中)がいました。ベトナム戦争も米国の敗北で終わり、学生運動の季節も過激派の動きが目立つ程度の時代に入っていました。「ああ、あれから10年、あの松田が違う世界に行ってしまったんだ」という感じでしたね。

◇毎日新聞社“倒産” その時社員は・・・

そんな政治部に行くのですが、バーターで経済部に政治部から来たのが、鈴木恒夫さんでした。当時の経団連会長の土光敏夫さんに食い込み、政治部に戻ってから河野洋平に引っ張られて退社。新自由クラブ創立にかかわり、土光さんのバックアップもあったと言われていますが、選挙にも出て当選。2008年福田内閣で文部大臣もやります。そんなことないだろうけど、もしぼくが政治部に行かなかったら、鈴木恒(つね)さんの人生も変わっていたかもしれないな(笑)。

政治部に行って間もない昭和52(1977)年暮に、毎日新聞社は事実上の倒産となるわけです。新旧分離という手法で事業の継続をはかりました。その5年前の外務省機密漏洩事件、いわゆる西山事件などをきっかけに部数がどんどん落ち、最盛期600万部近くあったのが公称450万部といわれていて、「実際には300万部を切ってる」なんて、囁かれていました。さらに第一次石油危機(73年)後の経済危機の中で高度成長が止まり、74年には戦後初のマイナス成長という逆風を毎日新聞は受け止められなかったんでしょうね。

 注)新旧分離方式=債務と資産をすべて旧会社が負って、新たに設立した新会社が事業を継承してそれまで通り続ける方式。会社更生法などを適用する倒産に陥らず、この方式が取れたのは、事業継続最優先を期待する各方面(金融機関、財界、労働界、学界、読者など)の支持・応援があったからだと言えよう。

借金が700億円近くふくらみ、実際は自転車操業状態で、74年以降41億円、75年56億円という巨額赤字決算を計上して経営危機が表面化する状態でした。広告収入は石油ショック前には月42億円あったのが10億円に落ち込んでいたんですね。誰の目にも倒産寸前と写っても仕方がない状況に追い込まれていたように思います。経済部の金融担当なんかは、メインバンクの三菱銀行、三和銀行などからは、「このままでは危ないよ!」というシグナルを送られていたようですが、社内的には共有化されていなかったと思います。ぼくも経済部の連中と会うと話しは聞かされていましが、現実感がなかったなー。

Q.社史の「「毎日」の3世紀」(下巻、2002年刊)によると、経営危機については週刊誌が「毎日新聞倒産に瀕す!」などと書き立てたようですね。

「毎日は経営状態がピンチ!」というのは、「ジャーナリズムの本流は新聞」とふんぞり返ったいたわけですから、ここぞとばかりに「週刊新潮」を筆頭に、週刊誌などはセンセーショナルにしょっちゅう取り上げていました。すでに部数的には「朝毎読(朝日、毎日、読売をチョウ・マイ・ヨミと読む)」の時代は過ぎて、販売面では完全に「朝読毎」、あるいは「朝読」の時代に変りつつあったように思います。でも取材先のイメージとして毎日は、朝日の次の新聞という感じに変わりなかったような気がしますね。一線の記者のプライドにも変化はなかったように思います。「まあ、何とかなる。日本社会にとって必要な社会インフラとしての毎日新聞は生き残るよ!」なんて考えていたフシがあります。今考えれば、いい気なもんですね。
債務返済は一切合切旧社にまかせて、新生毎日新聞社を発足させて事業をそのまま継続できたわけですが、新社がもし赤字を出したら倒産まちがいなしだから経営的にはシビアでした。
当時は福田内閣で、毎日政治部OBの安倍晋太郎(安倍晋三前首相の父)さんが官房長官、坊秀男さんが大蔵大臣だったということもあったでしょうから、政治部は安倍さん、坊さんを通じて財界、大蔵省などに「毎日を助けてほしい」と頼み込んでいたようです。

19770329毎日新旧分離記事

◇会社の経営は忘れて夜討ち朝駆け

後に経営企画室に行ったとき(1989年3月)、毎日新聞の題字変更などのCIプロジェクトに携わります。この時、パートナーとなったNTTドコモのロゴデザインなどを手掛けたPAOS(株式会社中西元男事務所)の人が、社内ヒアリングを行った際、ある海外支局の特派員が彼らのインタビューに「ぼくは会社の経営状況には一切関心がない。いい原稿を書くだけ」と断言したので、「あの時は本当にビックリした」と語っていました。恐らく一線記者のほとんどが、そんな感じじゃなかったのかな。その辺が営業感覚で社内が一貫している“普通の会社”と、“インテリが原稿を書いた新聞”を、泥臭い販売戦線でナベカマの景品付きで新聞を売っている新聞社は違いましたね。特に毎日新聞はその傾向が強かったと思いますね。

でもこの頃、ジャーナリズムの世界では田中前首相の逮捕(76年7月)などが起きるロッキード事件をめぐる報道で、「毎日新聞の報道は一歩先を行っている」などと“ロッキードの毎日”という評価が高く、編集局の意気は高かったことを思い出します。

このとき、ぼくも経済部でなく政治部にいて取材に追われていたので、経営状況にそう関心はなかったと思います。だって会社の外の取材が面白くてしかたがないんですから。政治家の家に夜討ち朝駆けの忙しい日々。朝6時にはぼくの住まいの杉並のマンションの前に朝駆け用のハイヤーが来ているんです。マンションの人からは「お宅のご主人はハイヤー通勤でスゴイですね。新聞社ってすごいんですね」なんて言われていました。それって皮肉ですよね。こちらにしてみれば夜中の1時、2時に夜討ちをして帰宅、5時過ぎに起きるんですから寝不足で勘弁してといいたいところなんですが----。

でも政治家の家に行っていろいろと話を聞くのは面白かったな―。ですから朝起きて昨日の取材していた記事が「載った!」、他紙を見て「やられた、コンチキショウ、やり返すぞ!」という感じで、取材され側も「書きやがって!」と部数のことなんて気にしていなかったと思いますよ。

そのせいか新旧分離の挫折感というのはほとんどなかったですね。ぼくも前は経済部だけど、倒産回避方式で「新旧分離」なんて方式があるなんて知りませんでした。政治部記者も、ややこしい新旧分離なんて首をひねるだけで----、わけわかんないじゃないですか。取り合えず新聞は毎日出ているわけで、取材先の政治家も「毎日新聞は大丈夫か?」なんて、夜回りで遠慮がちに聞いてきますが「給料もチャンと出てるし大丈夫ですよ。ところで先生、今度の組閣で入閣といわれていますが、どうですか?」なんて感じでしたね。

◇暮れのボーナス、他社の7、8分の1

Q.その新旧分離の事態の起きる前年に結婚されていたんですね、ご家族の反応はいかがでしたか。

事実上の倒産、新旧分離についてはどの程度影響があるものなのか、「給料は下がるんだろうな」とは思いましたが、正直その影響がどの程度、深刻なものになるかはわからなかったというのが本当のところですね。

ただ結婚式は六本木のカトリック・フランシスコ会のチャペルセンターで式を上げ、そこの広間で立食のパーティーをやったんです。ぼくの親父は、その10年前に毎日新聞の出版局次長を最後に定年で辞めていましたが、母は何かと毎日新聞の情報を父から聞いていたと思います。親父が在職中世話になった当時の山本光春社長が、3年前に41億円という巨額な赤字決算の責任を取った辞めたことなどを知っていて「会社が大変なのに派手なことはやめなさい」といって、女房のお色直しを辞めさせたことは憶えています。申し訳ない気が今でもしています。

新旧分離が公表されたその年の年末の土曜日か日曜日の夕方、西武新宿線の東伏見の女房の実家に行ったときに、テレビを見てて、6時か6時半だったかTBSのニュースで「毎日新聞が新旧分離をしました」という報道がありました。聞いている実家の家族も、僕の前ではなんだかよくわからないという感じを出していました。でも結婚してやっと一年経った時期ですけど、「テレビのニュースに出る景気の悪い、えらい会社に勤めている男に長女を嫁がせたな!」という感じではなかったんでしょうか(笑)。女房の父親は八幡製鉄(現在の日本製鉄株式会社)の秘書課勤務をへて、北九州、広島、名古屋のオフィス勤務というお堅いサラリーマンでしたから、心配したと思いますね。

しかし新旧分離の現実をわが身に突き付けられたのは、その年の暮れのボーナスが社員一律10万円ポッキリ。春闘の賃上げもゼロ。それまで肩を並べていた朝日、読売は7、80万円という時代だった思います。子供と住宅ローンなどを抱えていた先輩記者は大変だったようです。僕のところはまだ結婚したばかり子供もおらず、女房が私立女子中高学校の英語教師で、ダブルアカウントなので助かりました。女房は自分の賞与よりガクンと少ないぼくのボーナス袋を見て「あんなに一生懸命、夜討ち朝駆けなどをして働いているのに----。」と同情されたことを記憶しています。

ただその後、ずっと毎日新聞はマスコミ業界では知る人ぞ知る低賃金会社になり、その中で学校を辞めて子ども四人も育てるのですから、女房には頭が上がりません。ですから当時の経済部、政治部、社会部などの編集局の記者たちは、減収分をカバーするべく月刊誌、週刊誌、経済誌、などに“アルゲン”と我々は呼んでいましたが、アルバイト原稿に精を出す人もいました。なかには会社の原稿より、アル原の収入が多いとウワサされる、「アルゲン帝王」などと称される記者もいましたヨ(笑)。もちろん私もせっせと、やりましたけど----(笑)。

朝日新聞なんかは編集局にホントかどうか知りませんが、「アルバイト原稿禁止令」が出ていたと聞いたことがあります。それだけの給料を払っていたということなんでしょうけど、社論と違うことを書いて問題になっては困るという事もあったんでしょね。なんかうらやましかったことを憶えていますね。

Q.“アルゲン”は、いわば他流試合ですよね?書くのが“商売”の記者としてはプラスの面もあったのではないですか?

それはそうですね。書き飛ばすことは早くなりましたね。でも普段は紙面に押されて字数に制限があるので、それに比べれば長めの原稿の起承転結を学んだとも言えますね。それが三年前に出したノンフィクション「封印された殉教」(上下巻、フリープレス社刊)の連載に生きたかもしれません。副収入の原稿料については、江東区や墨田区に住んでいる人は課税の請求が区役所から来たようですが、杉並区は松本清張以下当時の大作家か多く住んでいましたから、来ませんでしたね(笑)。本当は申告しなくてはいけないんでしょうが。あれ!これって“脱税”ですね(笑)。

◇外に出て羽ばたいた人たち

Q.取材、報道の士気は高かったと伺いましたが、やはりこの時期、毎日の記者がかなり辞めたと聞いています。社内的には動揺はあったのですか?

確かにこの前後、経済部に限ってみれば力量のある記者が相次いで辞めていますね。まだ今のように新聞社から、ネットメディアなどへの転職が普通の時代ではなかったですから、業界では目立ったでしょうね。TBSのニュースキャスターになった僕より2年後輩の嶌信彦君。あるいは、当時日本での業務を拡大していた英国の通信社ロイターの日本支社などに移って行った人が数人いたように記憶しています。この時期ではありませんがTBSの社長・会長になる武田信二君、野村総研に行き立教大学の教授になった福島清彦君なども1990年前後に経済部を飛び出しています。

政治部は少なかったと思います。記憶にあるのは福田番記者を一緒にやっていたことのある稲岡稔君、福田派担当記者だったと思いますが、1984年頃辞めてイトーヨーカドーに転職、常務までやられています。同期では89年に辞めて、テレ朝のニュースキャスターになり、都知事選にも出馬した社会部記者、サンデー毎日編集長をやった鳥越俊太郎君もそうです。

でも辞めた記者たちを思い出し、その後の経歴を見ると優秀な人材だったんだーと改めて思います。新聞・テレビ・出版業界は他の業界と比べて当時は高賃金で有名でした。なまじ毎日新聞はジャーナリズムの世界では、ネームバリューは大きかったですから、その中でやはり低賃金というのは響きますね。そういうできる人が退社したから、僕のようなぼんくら人材でも経済部長になれたのかな(笑)。ただ新旧分離前後の中途退社の経済部の記者を見ると、単純に会社の前途に見切りをつけてという感じではなかったように思います。

◇一時期悩んだものの・・・

Q佐々木さんは辞める気はなかったんですか?

ウーン痛いとこ突きますね。これはほとんどしゃべったことないんだけど、当時40前ですから深刻に悩みましたね。というのは、会社側はこの新旧分離に合わせて要員千人削減という人員整理にも乗り出していました。これに合わせて編集局以外にも会社を去った人も多いわけです。

一度、エネルギー担当記者時代世話になり、産経新聞系列の日本工業新聞の長老記者の林勉さんのところに、今後の身の振り方の相談に行ったことがあります。「よし稲葉さんのところに行こう」――林さんは、後に昭和シェル石油の永山時雄社長(元通産省事務次官)から誘われて転職し副社長にもなります。産経新聞の社長もやったことのある当時、エコノミストしても有名だった財界にも顔の効く稲葉秀三さんのところに連れていかれました。稲葉さんは、後に外務大臣をやる大来三武郎、同じ産経新聞の社長をやった土屋清、エネルギー経済研所の理事長の向坂正男さんといった、当時、政府の経済政策には必ず関与したエコノミストの一人でした。

霞が関ビルにあった稲葉さんの事務所に二人で行き、林さんから「毎日新聞はあういう状況だから、佐々木君をはめ込むところありませんかね」というような紹介をされて、転職相談に乗ってもらったことがありました。でも当方履歴書も持っていかず、本気度は今一歩伝わらなかったようで、オファーはありませんでした。でも林さんとはその後も門前仲町の天ぷら屋で、年に二回ぐらい会合をして当時のことを話したりしています。あの時、もっと真剣に頼んでいればどんな人生が開けていたか考えることがあります。

◇退社の遠因、派閥抗争?

Q失礼なことを聞きますが、毎日新聞は社内的に派閥抗争が強い、特に経済部は―ということを他社の人から聞くことがあります。“佐治・歌川派”というのがあったと聞いていますが、どうなんですか?

イヤなこと聞きますね(笑)。はっきり言えるのは毎日新聞の社内の雰囲気は自由で伸び伸びしていました。その結果、部内でも気分の合う人、会わない人との人的つながりはあったと思います。それが外部から“派閥”といわれたのかもしれません。その下の派閥に乗る形で、経営陣の中にも派閥があり、それが「長期的な経営意思の不統一」をもたらしていた―という指摘が、毎日新聞の創刊130年に合わせて刊行された社史「毎日の三世紀」(下巻、2002年刊)の「経営再建へ新社設立」の項目にも書かれています。社史にしては客観的すぎると思いますが(笑)。この辺が朝日新聞、読売新聞などと違って面白いところと思います。

毎日の3世紀本外観

これは“私見”ですが、朝日新聞は戦後、同社の大株主の社主だった村山家と経営陣が対立、経営陣が一致団結して村山家の経営介入を阻止した経緯があります。社内に派閥などを作らない、村山家に付け込ませないという緊張感がずっとあったように思います。

一方、読売新聞は歴代のカリスマ経営者、正力松太郎、販売の神様・務台光雄、現在の主筆・渡辺恒雄が君臨し、社内的に批判を抑え込む体制を作り上げていて、“派閥”を作るようなことは許されなかったと思います。

毎日新聞には、戦後ずっとこういう社内を一致団結させるタガのようなものはなかった感じがします。それだけ自由でリベラルな言論を保持してきたと思います。でもやっぱり社内が団結してたほうが、資本主義の競争社会では経営的には強いですよね。

◇“ハゲタカ”が毎日を狙い撃ち

Q.読売の務台さんは、「白紙でも売ってみせる」と言ったと言われていますね。本当に言ったかどうかはわかりませんが、本当に聞こえます。正力さんについては、昔のことですが、読売を見ると、第2社会面に、正力さんをヨイショする記事がしばしば載っていたのが印象的でした。ナベツネさんは、読売の中身の水準を上げるのに全力を尽くしたと自ら語っていますね。大坂社会部の“黒田軍団”をつぶして保守路線を強めたり・・・。

購読しているだけでインテリ・リベラルと見られていた朝日新聞、経済界の機関紙といわれた日本経済新聞などより、読者の忠誠度が低い毎日新聞をターゲットにして、各社とも特に読売新聞は新聞拡張攻勢をかけていたと思います。巨人軍、よみうりランド、よみうりゴルフクラブ、東京都心の不動産などの強力な資産をバックに、新聞販売競争、いわゆる“なべかま合戦”、読者への景品提供で圧倒的に優位に立ち、販売部数1千万部を公称するようにまでになります。でも昔は「読売は読み捨て新聞」なんて悪口を良く聞きましたが、だいぶ以前から、ナベツネさんが社長になってからかな、記者教育に力を入れ海外留学をさせたりしているせいか、読みでのある原稿が多いですね。特に日曜日の読書欄、学芸、科学記事なんか好きだな―。

ゴルフ場で思い出しましたが、僕が水戸支局に行った当時、毎日新聞も出資して「水戸ゴルフクラブ」を造成します。しかし役員会で「新聞社が高給取りの遊びのゴルフ場なんて持つのは持ってのほか」と最終的に出資を引き上げたと聞いています。この辺の経営体質、センスが読売新聞なんかと違いますね。

この中で毎日新聞は、ズルズルと部数を減らしていきます。給与格差が開き歯がゆかったですけど、ロッキード事件報道に見られるように「紙面の質は圧倒的にうちの方がいいんだ!」というのが、一線記者のプライドでしたね。

◇新旧分離路線が生き残りを導いた。

この新旧分離路線を推進したのが、経済部OBで76~80年まで社長だった平岡敏男さん(86年77才で死去)、その後を継いだ外信部出身の在任中亡くなる山内大介社長(80~87年)でした。その手足になったのが、新旧分離路線を進めたのが経済部出身でワシントン特派員の経験もある、常務の佐治俊彦さんでした。佐治さんは財界担当記者で経団連クラブのキャップだったので、新旧分離方式の応援団となる財界の大立者の永野重雄さん、日本興業銀行の中山素平などには相当食い込んでいました。もう一人がワシントン特派員、経済部長、経営企画室長、編集局長にもなる歌川令三さん。二人とも個性的でキャラのたつ人でした。財界と社長直結のパイプを持ち、新旧分離政策を推進していたわけで、経済部に大きな影響力を持っていました。この二人と気の合う人たちを“佐治・歌川派”と、一部ではいわれていたようです。ぼくはこの二人とは気が合い、にわりと可愛がられました。

当時辞めた人たちの多くが、この二人への反発が強い人だった印象があります。外部から見ると派閥抗争と見えていたのかもしれませんね。社内的に見てもこの“新旧分離路線”を敷いた、佐治・歌川路線への労働組合などからの反発は強かったですね。ただ現時点で考えるとあれから40年以上経ちますが、毎日新聞がデジタル化の波の中でもなんとか新聞社として生きてこれたのも、この新旧分離路線が軌道に乗ったからと思いますよ。でもまあ、これからどう生きていくのか、問われますね。ぼくも育ててくれた新聞社ですから、なんとか生き残ってほしいと願うや切―という感じです。

◇働くみんな「毎日」が好き!

Q.でも毎日新聞はそういう新旧分離、その後の厳しい経営状況、失礼ですが他社よりも大幅に低い給料の中で「宗教を現代に問う」、「記者の目」とかで菊池寛賞を受賞したりします。「宗教を現代に問う」の連載はよく覚えています。本になってますが、数年前に、古本屋で見つけて思わず全5巻を買ってしまいました。「記者の目」は、40年以上毎日新聞の目玉になっていますね。

そうですね。社史を見ていろいろ思い出しますが、それ以降、79年の「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名前を刻んだ「埼玉(さきたま)古墳群」で発掘された「稲荷山鉄剣」の日本古代史を揺るがす大発見の特ダネ。早稲田大学商学部の入試問題漏洩事件(80年)、さらに日本に米軍が核兵器を積んだ空母などが日本に寄港していたという元駐日大使の「ライシャワー発言」(81年)など、三年連続で新聞協会賞受賞のスクープを放ちます。

ぼくがいまでも毎日新聞らしいなと思っているのは、2000年に新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受けた「隼君事件」です。この事件は97年11月に東京世田谷で当時小学2年生の片山隼(しゅん)君が横断歩道で、ダンプカーに轢かれて死亡します。翌日毎日新聞にはベタ記事で「ひき逃げ小二男児死亡、容疑者逮捕」がのります。実は犯人は不起訴となっていたのですが、どこの新聞も書いていませんでした。その母親からの毎日新聞への手紙で警視庁担当の社会部記者が取材を始めます。十分な捜査をせずに東京地検は不起訴にするのですが、記者のねばり強い取材で、目撃者が分かり、再捜査となり犯人は逮捕、起訴、有罪となります。

実はこの記事を手掛けた記者は江刺正嘉君といって、たしか西部本社から経済部に来た記者でした。寡黙な男で、来た時から経済は合わない、社会部に行きたいといっていたように思います。念願の社会部に行ってこの記事を書き上げます。僕たちが記者になった時から、先輩記者に「ベタ記事をバカにするな」と何度も言われましたが、それを実現してくれたわけで本当に嬉しかったナ。その後も江刺記者はハンセン病患者のことなどを書いた記事を見かけますが、こういう記者がいることが毎日新聞の宝だと思いますよ。

Q.私も隼君の事件の報道は思い出します。すばらしい報道でしたね。2000年には「旧石器捏造」の大スクープもあって、協会賞連続受賞となりました。そのジャーナリスト根性はどこから来るんでしょうか。

いやーとにかく働くみんなが「毎日新聞」が好きなんだと思う。その社内的な風通しの良い自由さをもって、少数者に独占されている情報、隠されている不正を一般の人に届けようという、リベラルさと正義感を持つ新聞社をつぶしてなるものか。それが日本のジャーナリズムを支えるんだという気概を、ほとんどの記者は持っていたんだとおもうなー。もちろんそんな青臭いこと社内でも口には出さないけど、安給料にめげないでやっていけた理由じゃないかなー。安いといっても平均的な日本のサラリーマンの給料は出されていたんだけど。毎日新聞の130年の伝統をバックに、タブーに挑戦する自由さが取材に生きていたとおもう。それと先輩記者が築いてくれていた毎日新聞への信用ですね。もちろん戦時中の戦争協力の問題はありますが----。

新旧分離の時も「私のうちは戦前の東京日日新聞のときから毎日、頑張ってくださいよ」という声を取材先の政治家などに声をかけられたこともあります。おべっかとわかっていても、うれしかったなー。でもデジタルの時代、新聞と読者の距離がどんどん離れて行く現状をどう見るか、どうやって生き残るのか考え込んでしまいますよね。

この問題はヒヤリングをして下さっているメディア研究家・校條さんの専門分野だなー(笑)。

Q.確かに、デジタルの時代の今日は、スマホ画面をニュースメディアどころかあらゆるアプリやコンテンツと横並びになって存在感が低下しているのは事実です。かつては、どの家も新聞をとっていて、居間などに置かれている新聞が物理的に目につく“特権的”な地位にありました。そういう意味では身近でしたが、新聞社と読者の間には販売店があって、極端に言えば、新聞社は読者の顔が見えていませんでした。それに対して、毎日新聞デジタルががんばっているように、かつてはできなかった記者と読者が直接つながることができるようになってきています。たとえば、読者ひとりひとりにメッセージを送れるし、記者が登壇するオンラインイベントに読者が参加して質問したりといったこともできます。

そうなんですよね。でもそういう手法が経営的に貢献できるところまでいけるかどうか。200万部ギリギリというところまで来ている毎日新聞が取材網を維持して、デジタルの読者の期待に応えるところまで持ちこたえるのか、心配ですね。
ただネットメデイアの人の取材方法を聞くと、毎日、数千、数万のツイッターやSNSの書き込みなどをみて、ニュースを汲み上げているという話を知ると、例えば先ほど話した隼君事件などをキャッチして、キャンペーンなどにつなげていくことも可能な時代になりつつあるような気もします。

その一方で新聞は原点を忘れないで、少数者に独占されている情報、隠されている不正、格差社会の中で喘いでいる人たちの声をーー日本人だけでなく、外国人の声を含めてですが、一般の人に届けようという、リベラルさを忘れない青臭い正義感を保っていって欲しいな----。