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ある新聞記者の歩み 15 若くしてひとり地方に降り立ち、もまれて育つキャリア官僚

元毎日新聞佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第15回です。前回は、経済部から政治部に移って、個性が強く魅力あふれる政治家たちと出会った話をお聞きしました。今回は、一転、官僚の世界です。佐々木さんは政治部時代、自治省と外務省を担当されています。経済部時代とは違った目で見た官庁の世界は、それなりに新鮮だったようです。今回は自治省、次回は外務省担当当時のことをお聞きします。
役所の中でもっとも気位の高い役所というと私など財務省(旧大蔵省)を思い浮かべますが、実は内務省の流れを汲む自治省(現総務省)こそ役所中の役所だったと佐々木さんは言います。そんな自治省のキャリア官僚はいったい何をめざしていたのか、興味津々です。ところが記者にとっては自治省は実はニュースが無いところだそうです。では、そこで佐々木さんは何をしていたのでしょう? (聞き手:校條諭・メディア研究者)

◇大蔵省より人気だったエリート官庁

Q.担当だった記者クラブのことを教えてください。特に福田番を終えた後、1979(昭和54)年の春、中曽根派担当を兼ねながら、自治省の担当になっておられますね。自治省のことを知っている人はあまりいないと思います。2001年の省庁再編成で旧郵政省と一緒になって、今は総務省になっていますね。

自治省という役所を担当して初めてとは言い過ぎかもしれませんが、ぼくは明治以来の「日本国」の統治機能の形がハッキリとわかったような感じがしました。その意味で貴重な体験でしたね。

20200620佐々木宏人氏

自治省は戦前は内務省といって、日本の国家行政の根本を握っていた中心官庁でした。内務大臣は常に内閣の副総理格だったようです。戦前の15年戦争といわれる戦時体制のお先棒を担ぎ、大政翼賛会などの官民挙げての国家総動員体制を作った中心が内務省でした。 戦前の軍国主義時代をリードした“諸悪の根源”という批判は根強いことは確かです。まず日本全国の知事は中央政府が選ぶ官選知事で、内務省のキャリア官僚から派遣されていました。若い官僚は地方に派遣され、財政課長、地方課長、総務課長、特高課長などの主要ポストを握っていました。主要部長、副知事なども内務省人事でした。今も残るお役人がえばる「官尊民卑」という抜きがたい日本人の思想の根底には、この内務省の統治思想があるように思います。

警保局は現在の警察庁の前身で、警察行政全般を担当していました。治安維持法などをベースに言論の自由を押さえつけていた悪名高い特高(特別高等警察)もその管轄です。そのほか、天皇制国家の基本となる靖国神社など各地の戦没者を祭る護国神社などを管轄する「神社局」、現在の厚生労働省担当の「衛生局」、「社会局」、「国土局」がありました。国土局は今の国土交通省の鉄道分野を除いた行政組織といっていいでしょう。官庁の中では圧倒的な力を持っていました。大蔵省より人気は高く、トップエリートだったことは間違いないでしょうね。

それが戦後、GHQによって戦時体制推進の中心となったとして解体されました。特に特高警察関係者は公職追放にあいました。特高の元締めである警保局長、警視総監などを歴任した町村金吾氏はその代表例で、追放解除後、国会議員、北海道知事になります。

内務省解体でアメリカ流の地方分権、地方自治が原則となり、直接的な統治ではなく間接的な地方監督分野だけが、自治省(当初は自治庁)に残ったのです。まず知事は選挙で選ばれるようになり、その権力は大きく削がれました。例えば今もし内務省があれば、コロナ渦の対策は内務省の中で衛生局、社会局が担当し、「警保局」の力を使ってデマを取り締まり、有無を言わせずワクチン接種を進め、官選知事の命令の下、都市の“ロックダウン”なんかを平気でやったでしょうね。

でも戦後になっても権限は地方行政に限定されますが、地方に中央の政策を反映させるという役目を担い、自治省の役人は入省後まもなく地方の県庁、政令指定都市などに課長職などで派遣されていきます。

◇落下傘でひとり降り立ち、もまれて育つ自治省キャリア

自治省を担当して日本の役所っていうのは、自治省と大蔵省とで持っているという感を強く持ちました。どういうことかというと、大蔵省の人は優秀ですがお金をバックにしているんで、相手はいうことを聞かざるを得ない。ところが自治省の役人は、包丁一本さらしに巻いてじゃないけど、若い官僚が自治省に入って数年で各県の自治体の総務課長とか、企画課長、財政課長とか主要ポストに単身で天下りというか出向するわけですよ。

最高ポストは副知事ですが、そうすると、当時の県庁、市役所、町村役場などの地方自治体の職員を組合員とする自治労(全日本自治団体職員労働組合)はまだ力があって「天下り反対!」なんて、赴任先の県庁所在地の駅に着いたときからプラカード立てて赴任させまいとするんです。そういう中で、霞が関から落下傘で一人で降りるわけです。でも最近では小さな村役場や、離島、豪雪地帯などにも派遣して日本国土の多様性を勉強させているようですね。地方の問題を中央の政策にフィードバックさせようというねらいもあると思います。

いずれにしても、そこでどうやってそこの自治体の部下となる人材を“手なづけて”、中央の方針をその地の政策に反映させるか。ということを学ぶわけです。課の中、部の中は地元の人間ばかり、そうすると頭がいいばかりではダメで、やっぱりゴマすり役人ではなく仕事のできる人を昇進させたり、人間力で部下を心服させなくてはならないわけです。また上司の部長、副知事、知事とも上手くやらなくてはいけない。その後、そこの部長、副知事などになることもあり、最終的には議会の受けがよければ知事に押され、選挙にでることも夢ではなくなります。また地方の人たちも中央に災害時の復旧の陳情などに上京する時、こういう人たちが自治省にいれば頼りになるわけです。

こういう環境の中でもまれて役人生活を送ってきたわけですから、この人たちは懐が深く、付き合っておもしろい人が多かったな。

◇知事をめざす自治省エリート

いまでも自治省出身の知事がずいぶんいますね。数えたら47都道府県のうち13人もいます。兵庫県のように現在まで4代59年にわたって自治省出身者というところもあります。現在は総務省ということで、戦前は逓信省だった旧郵政省といっしょになって変な役所になってるからわからないですが、当時の自治省の役人は自治省自体でエラくなりたくはない、最終的には知事になりたいということでした。

いまでも覚えているけど、行政局長の土屋佳照さんの部屋に行くと、堂々と壁に鹿児島の桜島の大きな写真が飾ってあるんです。それは彼が鹿児島出身だからです。しかも知事になりたいという意思表示なんですね。流行りの言葉で言えば“マウンティング”しているわけ。その後、1989(平成元)年から2期知事になり、見事に実現させましたね。鹿児島県というのは、戦後65年間、ずっと内務省、自治省出身の知事でした。でも最近は鹿児島県もですが、経済産業省出身の知事も増えていますね。調べたら全国で6人でした。

Q.赴任先の現地では床の間背に坐る立場ですよね?

それはそうなんですが、県庁内や役所内のバランスだとか、いろんなことを考えるでしょうね。そこで烙印押されたらふっとばされます。出向先の県庁などからのその人材の評価は、本省に届きますからね。ぼくは未だに当時の自治省というのはなかなかの官庁だったと思いますよ。人間的にもすぐれた役人が多かったと思いますね。

中曽根内閣当時、官房長官を務めそのタカ派路線をいさめた後藤田正晴さんなんかもそうですし、自治省事務次官を務めた石原信雄さんも竹下内閣から8年間、7代の首相の官房副長官を務め、昭和から平成の改元時期を乗り切って、未だにその行政手腕、調整能力は評価されていますよね。やはり国の行政のツボを押さえている経験と、その練られた人間力が特徴ですよね。
他にも政治家として日中国交回復に努力した自民党の厚相も経験した終戦時の内務次官・古井喜美、警視総監の町村金吾、自治相にもなったタカ派で有名だった奥野誠亮、東京都知事になって美濃部都政時代の赤字を一掃した鈴木俊一などを輩出していますね。やはり行政面ではやり手の印象が強いですね。

でも終戦時、戦犯を出すことを恐れて全国の市町村に戦争体制遂行の公文書の焼却を命じたのは、奥野誠亮、のち読売新聞会長になった小林与三次、若手内務官僚だった原文兵衛らだったと伝えられているようで、後世の歴史に公文書を残すなんていう感覚は皆無だったことは確かですよね。この辺は戦前の“天皇の官僚”としての限界はあったかもしれませんね。

◇大臣会見で政治部の空気に染まらず一人質問

Q.佐々木さんが自治省担当の時、第二次大平内閣の時で、後藤田さんが自治大臣だったですね。

なんか“風圧”がありましたね。この人はすごい人だなあと思いましたよ。当時の自治省のドンのような感じだったな。自治省の官房長、税務局長、警察庁の警備局長、長官という経歴で、うかつなこと聞くと怒られそうで----。
政治部の人っていうのは、公式の記者会見で質問というのはしない風潮があるんですね。サシ(一対一)で話すのが政治記者だ―みたいなところがあるんですね。ぼくは経済部出身だったから、夜回りなんかもするけど記者会見が真剣勝負、本命という意識があって、いろいろ聞くのが記者会見だと思っていたんです。内政クラブ(自治省の記者クラブ)の記者は、ほとんど質問しないんですよ。ぼくは後藤田さんにいろいろ質問したことを思い出します。

Q.同僚から空気を読めよとか言われたりしたことはないのですか?

それはないですね。ただ当時の自治省の広報室長から「佐々木さんは面白い質問をしますね」というようなことを言われた覚えはあります。まあ、あまり変なことは聞かない方がいいですよという牽制なんでしょうが。基本的には自治省は一人担当なので、先輩や同僚記者から“ご注意”は受けたことはなかったですね(笑)。

Q.どんな質問をされたのですか? 

 
どんなことを聞いたかはあまり思い出せませんが、後藤田さんは田中派の幹部で、その頃から力があったから政局談義が主だったようだったと思います。「中曽根さんはどうですか」なんて聞いたことがありました。すると、後藤田さんは自分の方が先輩なので「中曽根君」と言っていて印象的でした。中曽根さんは後藤田さんの4年後輩で内務省入りしてから海軍主計学校に行き、後藤田さんはその頃内務省に入っていました。

Q.そういう政局談義だと直接記事にはならないんですか?

そうですね。だいたい政治家もさるもので、広報室が用意した記事にならないような発表の後、「これからはオフレコ」という事でオフレコをかましますからね。何か書いたような気もするけど、平河クラブ(自民党担当記者クラブ)に「後藤田がこういった」ということをメモで送ってただけだと思います。

政治部の記事には、記事のネタ元が明確に書いてあるのは少ないですよね。今の菅首相退陣後の政局ニュースでも、ネタ元が明確に書いてある記事は記者会見記事以外少ないと思います。政治家との話は夜回り、朝がけの話、昼間の懇談、基本的には名前は出さないのが基本です。“ダイレクトコート記事”、はほとんどないですね。 名前・役職を引用しないんですよね。

Q.ダイレクトコート記事って何ですか?聞いたことがないですが・・・。

そうですか!当時は日常的に使っていました。オフレコ会見や懇談での話は、話した本人の名前•役職は書かないーという意味で「ダイレクトコート(direct quote=直接引用)はしない」という様に使っていました。経済部でも使っていた様に思いますが、政治部みたいに厳密ではなかった様な気がします。政治部の原稿はほとんどがダイレクトコート無しで書いていました。

いずれにせよ、このあたりが巧妙なのは外務省で、いまでも記事の出どころをよく見ると「外務省首脳によると」、「外務省幹部によると云々」というのと、「外務省関係者によると云々」とニュースソースが素人の読者にはわからないように書いてあるのがあるのを見かけますね。「外務省首脳」は外務次官、「外務省幹部」は局長以上、「外務省関係者」は課長以上なんて、書き分けていると思います。「外務省最高幹部」なんて書いたことあったような気がしますね。外務大臣のことですよね(笑)。外交の相手国のインテリジェンス機関が各社の記事をウオッチングしていますから、政策のアドバルーンを上げるときは「関係者」、かなり確定的な時は「幹部」という具合に書き分けるわけです。


◇記者会見今昔 昨今の会見を見て

Q.昨今、首相などの記者会見がテレビやネットの中継などで可視化されてきて、記者の質問について突っ込みが足りないといった批判がずいぶんされるようになりました。佐々木さんは、どのような感想をお持ちになりますか?

当時と違うのは、各新聞のスタンスが“リベラルと保守”という今みたいに明確ではなかったですよね。読売や産経がやや政権に好意的という“感じがありましたが、“安倍政権支持”というように明確ではなかったですね。

それに“金権政治”ということで、政治スキャンダルは田中金脈事件、ロッキード事件、それにからむハマコーさんのラスベガスの一晩で450万㌦、4億6千万円をすってしまうという事件など、有権者の生活感覚とかけ離れた、政治と金に絡む事件で各社とも足並みそろえて批判が出来ました。それと自民党の派閥抗争も“我田引水”の自派の勢力の拡大、自派の閣僚ポストの獲得-という分かりやすい権力闘争で、各社とも足並み揃えて批判しやすかったと思います。

政治外交問題も米ソ冷戦状況の中で、日本のスタンスもアメリカの核の下での追随が暗黙の前提でした。会見でも各社の意見が対立するようなことはなかったように思います。憲法九条下の“55年体制”が生きていましたから、憲法改正、防衛力強化などを大きな声で言える政治状況ではなかったですね。いまは政治のスタンスは「憲法改正」の是非、米ソ冷戦の終結とアメリカの世界の警察官としての存在の低下、それに比例して中国の台頭、尖閣諸島の領有権、台湾の存在を巡って日本も「防衛力増強」をせざるを得ない――国のあり方を巡って新聞社間でスタンスが違うので、どうしても政権側は自分に有利な方のQ&Aでしのごうという気分が強いんじゃないでしょか。

記者側も下手な質問をして官邸ににらまれたくない、ネット世界で炎上したくないというような忖度もあるんじゃないかな。それと当事者に食い込んでいる記者ほど、自分の持っているネタをもとに質問して他社に知られるようなことはしたくない、ということもあると思います。政治記者のサガとして、どうしても政治家と一対一のサシで当事者本人と話をしたいという気分があると思います。

それと記者側も反対論調側との記者同士の対立を避けたい、記者クラブの“調和の世界”を崩したくないという記者クラブ内の同調圧力という感じがあるのかもしれませんね。また我々の時と違うのは、外国人記者クラブ、社会部の記者、ネット関係の記者、フリーランスの記者の参加もあるようで、記者の数は増えているのに会見の質の向上と活性化が出来ていない感じがします。

ただ記者側を責めるのは酷な面もあると思います。やはり会見の当事者側の腹がすわっていないかというか、語るべき自分の言葉を持って対応していないと思います。語るべき自分の世界観、国家像、政策の基本方針というものがカラッポという感じがしてしょうがないですね。特に安倍政権、コロナ禍の下の菅政権を見ているとその感を深くしますね。ですからなるべく早めに切り上げて、やめにしたいという感じが見え見えですね。

思い切って3時間とか5時間とかの時間内で、記者会見をやったらどうなんでしょう。ジャーナリズムの側と権力側の程度が分かるんじゃないかな。

◇ニュースがない自治省の最大のニュースは? 

Q.自治省にいらした頃の取材テーマは何ですか?

それを聞かれると困るなあ(笑)。自治省ってほとんどニュースがないんですよ(笑)。だって、地方自治のことを書いたって中央紙の紙面にあまり載りませんよ。地方交付税のことだったら大蔵省でしたし。だから、ぼくはいったい何の原稿書いてたのかなあ?(笑) ただ時事通信社などは自治省の政策、人事などが地方自治体には必要なニュースでしたから、常駐の記者が2~3人いて、しかも配信する特別の媒体を持っていましたので、熱心に取材していましたね。なにかあると彼らからレクチャー受けて書いていたなあ(笑)。書いてもほとんどベタ記事だったと思います。

そうだ!年に一度の最大のテーマが、毎年発表される自治省管轄の「政治資金収支報告書」。これは各社1面トップになりますね。その日はほかに紙面を2~3頁使って政治部、社会部などが「報告書」の記事を書きます。そのため自民党の各派閥、各野党、政治家個人の膨大な報告書を読み込むわけです。

当時は中選挙区制で、小選挙区制での初選挙が1996年。今のように国から年間300億円を超える政党助成金(1995年から)もなく、それまで各派閥は財界からの資金集め、一枚3万円、5万円のパーティー券を押し付け販売して数億円を集金したり、それは大変でした。“金権政治”とマスコミから叩かれたり、その象徴が立花隆の田中金脈を暴いた「田中角栄研究」での田中首相退陣であり、リクルート事件でした。

ぼくが政治部にいた時代は金権政治万能の時代、経済部記者の経歴を生かして、政治家に有力経済人を紹介したりして喜ばれましたね。そういえば経済界とのつながりの薄かった中曽根さんに経済人との定期会合をセットしたり、渡辺美智雄さんと女房との結婚で仲人をやってもらった東京ガスの村上武雄社長と会わせたりしましたね。

「政治資金収支報告書」の話に戻りますが、、この報告書、金権政治の裏付けを取るということで重要でした。中曽根派なら〇月〇日の政治資金パーティーの資料を見たり、個人別の資料を見て調べるわけです。ただ個別の議員の収支報告書を見ても印刷費・パンフレット代いくらというような項目は出てくるのですが、その裏付けとなる領収書などはないんです。

そこで親しかった中曽根派の中堅代議士だった高校の同窓の与謝野馨さんに相談したところ、「全部の領収書取ってあるから、調べてもらっていいよ」と言われたのはいいのですが、四谷の事務所から段ボール4、5箱の書類をもらい、なんか東京地検特捜部のガサ入れの時の光景を思い出しますが(笑)、ボールペン1本、セロテープ一個なんて領収書一枚づつを自治省への与謝野事務所の提出書類と照らし合わせてチェックしました。「確かにかかる政治資金の実態 中堅代議士の台所事情」なんて、与謝野さんの名前は出さず記事を出稿したことを記憶しています。

◇ニュースがない職場で読書と論文執筆

Q.物理的には、自治省のクラブにおられたのでしょうか?

そうです。あのときは2階にあったかな。はっきり言って、そうとうにヒマでしたね(笑)。

Q.ニュースがないんじゃ確かにヒマそうですね。するとやはりマージャンですか?(笑)

実は、アガサ・クリスティーや、シドニー・シェルダンなどのやさしい英文の推理小説を読んでました。マージャンもやってましたが(笑)。英語を読んでたのは、海外特派員になりたいという気持ちがあったためです。経済部のワクとしては、当時、ワシントン、ニューヨーク、ジャカルタなど東南アジア、合わせて3,4ヶ所のポストがありました。当時のことを知っている人に「佐々木さん、あのころ内政クラブ(自治省の記者クラブ)で、英語の本を読んでましたね。すごいなって思いましたよ」って言われて、ぼくはそんなキザなやつにみられていたんだって(笑)・・・。でも特派員の夢は実現しませんでした(笑)。アガサ・クリスティーじゃ無理だよね(笑)。

でも遊んでいたばかりじゃありません。この時期(1979(昭和54)年)の専門誌「法学セミナー」の総合特集シリーズ増刊号10月号「日本の公務員」特集に「“天下り”公務員・その構造と実態」という論文を寄稿したりしています。毎日の経済週刊誌「エコノミスト」には、経済部時代その時々のトピックの第一次石油危機のことなどのアルバイト原稿を書いていましたが、外部の、それも法律専門誌に原稿を書くなんて初めてでした。原稿用紙で30枚程度ですが、その頃批判のやり玉に挙がっていた高級公務員の天下りについて分析したものです。

佐々木宏人氏日本の公務員表紙

佐々木宏人氏日本の公務員記事

高級官僚が現役時代の影響力と、出身官庁への口利き役を期待されて、大企業、公社公団などの役員、総裁などに転々と天下り、巨額な退職金を取る風潮を、各種の調査資料を基に分析したものです。なんで自治省担当のぼくのところに原稿の依頼が来たかというと、よくよく考えると自治省は“元祖天下り官庁”なんですよね。現役のころから地方に単身天下り、最後は知事になるというわけです。編集者の注文は幅広く企業社会にまで広げて書いてくれ、という注文だったと思います。

当時の企業社会、公社公団は企業活動の箸の上げ下ろしまで官庁の規制でがんじがらめでした。輸出・輸入、工場立地、大規模店舗の開業などで、大蔵省、通産省、建設省、厚生省などなど、規制が網の面のように張られていました。その規制を突破するために、大手企業は競ってこれらの官庁の官僚を誘って入社させたわけです。

官庁側も同年次で事務次官が出たら同期は退職するという不文律があり、同期の局長などが退職するわけです。55才前後で辞めさせられるわけですから、官僚も第二の人生、困ってしまうわけで、企業側と官庁側の需要と供給がマッチしていたわけです。この辺の構図を分析した論文でした。

西尾勝東大教授、松下圭一法政大教授といった当時売れっ子の学者の論文と並んで、自分の原稿が載るのもいい気分でしたネ(笑)。自分で言うのもなんですが、よくできた論文と思います(笑)。後年「エコノミスト」の編集長になる、当時編集部におられた駆け出し記者時代世話になった図師三郎記者がこの論文を読んで、「佐々木君もこういう原稿が書けるようになったんだ」とほめられ、うれしかったことを思い出します。(了)