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読書:『あのこは貴族』山内マリコ


私たちは、ただ上に浮かぼうと喘ぐバブルみたいなものだ。


本作の舞台は”上流階級”。
松濤の地に生まれ、何不自由なく育てられたお嬢様「華子」と、実業家・政治家を親戚に持ち、その末裔としての将来を嘱望される「幸一郎」の結婚に至る過程を軸に進んでいく。

 華子は知らなかったのだ。外の世界ではこうして、自分とはなんの接点もない人と、唐突に引き合わされる可能性があるのだということを。東京には、いろんな人がいるということを。さまざまな場所で生まれ育ち、さまざまな方言を操る人がいて、彼らが自分とアクシデント的に交わることも、当然あるのだということを。(中略)
 つまり華子にとっては、東京都内の限られたエリアしか、この世に存在していないも同然なのだった。

山内マリコ『あのこは貴族』

箱入り娘として育てられた華子が、一族から結婚を期待され、お見合いを繰り返す。そんな中、着付け教室で知り合った女性から紹介された男性と対面した華子が、そこに現れた関西弁の男性に面食らった時の一幕だ。
東京に生まれ、東京で育ち、そして同じ空気を育った人と知り合って、同じような家庭を築く。そのサイクルの中に無意識に入れられていた華子は、その外側にいる人間との接触に大いにたじろぐのだった。

そして、物語のもう一方の主人公となるのが、地方から慶應大学に進学するも中退、そこから自らの力で東京でサバイブする「美紀」だ。

彼女が高校までを過ごしたのは、「新幹線を降り、さらに在来線に乗り換えて一時間と少し、そこから車で二十分ほど走ると」たどりつく港町。冬には雪がひどいという。

猛勉強の末に慶應文学部に合格し、外交官になりたいと、英米文学専攻へ進むことを夢見る。
しかし入学して彼女が見た現実は、きらきらと輝く帰国子女の学生たち。

美紀は彼女たちの存在によって、嫌というほど思い知ったのだった。自分は彼女たちと、生まれた瞬間から途方もなく大きく水をあけられていて、その差はこの先何年経っても、縮まることは決してないのだと。

山内マリコ『あのこは貴族』

この、同じ東京にいながらにして、交わることのない二人の女性。
のちに、一人の男性をめぐって後に二人は顔を合わせることになる。
というのは本作のおいしい場面であるからして、ここでは語るまい。


華子と美紀。
東京に視点を置けば、ずっと東京にいた「内」の華子と、地方から東京へ這いあがってきた「外」の美紀との間には、なにか上下関係を連想してしまう節がある。
それは、本作のあらすじにも記された”上流階級”が、華子の属する世界を指すことからも明らかである。

しかし、作中でこの2つの世界は決して上下に並べられているわけではない。それぞれに等価な、ひとりの人間が属する位置としてのみ並列されている。

もちろん、買いたいものを買えて、行きたいところに(タクシーで)行ける都会の暮らしは、何不自由ないものかもしれない。
美紀の地元のような、「ちょっと街をぶらつこうにも、街なかには見るものがなく、入りたい店もない」場所とは決定的にちがう。

それでも、この二つに上下はない。いや、正確を期すなら、優劣はない、と表現するべきか。


作中で示唆されるのは、それぞれが属するコミュニティーの圧倒的な「澱み」だ。
固定された人間関係の中で、親と同じような人生を送ることが普通とされる世界。
それは、別に東京の”上流階級”にいようと、地方にいようと変わらない。それぞれが幼き頃に見て馴染んだものを「普通」と定義して、それ以外のものを知らずに育っているだけの話である。

その不自由を突き破って、自分の足で東京へ飛び出してきた美紀は、そうやって動くことこそが、自分が自由を手に入れた決定機だったのだと自負している。
ちょうど華子の「たまたま恵まれた家に生まれただけで、ベルトコンベアー式にぬくぬく生きてきて、苦労も挫折もなくて、だから人生に、なんにも語るべきことがない」状態とは正反対に。

物語の終盤、華子と幸一郎の絢爛豪華な結婚式に出席することになった美紀は、紋切り型のセレモニー、政界の大御所や歌舞伎役者の祝辞に鼻白みながら、ふと思う。ここに集まった同じような背景をもった人たちが、同じように政治家になり、同じように実業家になり、そしてその子孫を同じ立場へと送り出していく。

 中からは、わからないのだ。ずっと中にいるから、彼らは知らないのだ。気づいていないのだ。そこがどれだけ閉ざされた場所なのか。そこがどれほど恐ろしくクローズドなコミュニティであるかは、中にいる人には自覚する術がないのだ。
 なーんか地元に帰ったみたい。
 美紀は思った。
 中学時代からなに一つ変わらない人間関係の、物憂い感じ。そこに安住する人たちの狭すぎる行動範囲と行動様式と、親をトレースしたみたいな再生産ぶり。驚くほど保守的な思考。飛び交う噂話、何十年も時間が止まっている暮らし。同じ土地に人が棲みつくことで生まれる、どうしようもない閉塞感と、まったりした居心地のよさ。ただその場所が、田舎か都会かの違いなだけで、根本的には同じことなのかもしれない。

山内マリコ『あのこは貴族』

少し個人的な話をするならば、私は東京生まれ東京育ち。そして最終学歴はといえば、美紀が目指し(夢半ばで敗れ中退していった)「慶應文学部」である。

とはいえ、東京といっても西の端っこのベッドタウンであるし、慶應にだって大学から入ったいわゆる「外部生」(=小学校である幼稚舎から慶應に属する「内部生」の対義語)だから、作中で描写されるきらびやか、めくるめく慶應ワールドというには生憎ご縁がない。

そして大学を卒業してからは西日本を中心にいくつかの地方都市に住んできた。
その土地その土地に漂う空気が千差万別であることは肌で感じているし、その閉塞感の閉塞度合いだって同じではない。大きめの地方都市に漂う「ここから出たくない」というオーラだって感じたことがある。

それでも、それはあくまで「東京で生まれ育ち、いまは地方にいる私」から見た空気感でしかなく、それを発している当人たちにとっては「普通」そのものなのだ。
そしてそこに違和感を覚えるのは、私の持つ「普通」が無意識化に存在しているからに他ならない。
皆が皆、他でもない自分自身を「普通」の基準に据えている。
華子が、ちょうどそうであったように。


この状況は、水の中にプクプクと漂う泡のようだな、と思う。
私たちひとりひとりは、小さな水泡である。
その中から外界を見ても、屈折した泡の外側はうかがい知れない。ただ己の姿が歪んで映し出されるのみである。

当然泡は浮かんでいこうとする。その過程で、別の泡とぶつかる。
ぶつかって溶け合って、少し大きな泡になるかもしれない。新しい人と知り合うというのは、それに似ている。なにか価値観に合うものがあれば、ひとつの泡になれる。同じ泡の中に入れば、きっとお互いをじっくりと見ることもできるだろう。
そりが合わない泡だったら、ぶつかって少しへこんで、そしてまた離れていく。そこに自分とはちがう泡が存在したことに、否が応でも気づくであろう。

ただ、この小さな泡の外側には、きっと大きな泡がある。無数の泡を囲んでいる、大きな泡。
この大きな泡が、コミュニティであり、街ひとつである。
私たちがぶつかって認識した「違うもの」だと思っていた別の泡なんて、広い視点で見てみれば、この大きな泡に囲まれた中の同族に過ぎない。

そんな大きな泡が、無数の小さな泡を内にかかえながら、ぷかぷかと世界と言う海を漂っている。
小さな泡であるひとりひとりは、この世に別の大きな泡が存在するなんて、ましてや、その中に無数の小さな泡が存在するなんて、知らないままに生まれ、消えていく。
見ようとしたって、見えないんだもの。見過ごしてしまうことは、なんて簡単なのだろう。


ふと思う。
本を読むこと。それは、この大きな泡の向こう側の世界を夢想することなんじゃなかろうかと。
ぐるりと周りを見渡すことでは決して出会えない「ちがう世界」を、本は手のひらほどの大きさの中から、望遠鏡をのぞき込むように見せてくれる。

歩いていける距離には限界がある。
仕事なんてしていたら、時間だって全然足りない。
それでも、本に目を落とすとき、そんな制限を全部取っ払って、泡の外側への宇宙旅行に連れ出してくれる。

山内マリコの『あのこは貴族』が私にもたらしてくれたものは、そんな外界への気づきだった。そして、自分の中の「普通」へ、そっと疑問符を差し出してくれた。


いま東京を離れ地方都市で仕事をする私に、最後に美紀が華子たち東京出身者に向けた一言を送りたい。決して忘れてはいけない考え方。

「東京の人って、東京以外の街にも人が住んでるってこと、すぐ忘れるんだから」

山内マリコ『あのこは貴族』



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