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【短編小説】お離婚さん
夫の達明がいつも通り、薄暗い雰囲気を漂わせながら無言で帰宅した。
「おかえりー」
妻の優香はいつになく明るく言った。
いつもは低いトーンでおかえりというだけだったが、今日は2段階ほど高いトーンでおかえりと言った。
緊張からである。
結婚15年目。
2人は夫婦であるが、今となっては会話もろくにない冷めた関係になっていた。
2人とも40代半ばを過ぎた同世代。
子供には恵まれなかった。
いや、できなくてよかったと、今では思っている。
それでも、夫はこれが普通の夫婦の姿だと考えていた。
会話もろくすっぽないが、空気のような関係。
お互いがお互いを必要としていると思っていた。
ところが、妻の方はこんな陰気な生活はもうこりごりだと考えていた。
話しかけても返事すらない、夫は何も話そうとしない。
仕事から帰って来ても会話がない。
妻の優香が離婚を考えるのは当然と言えば、当然だった。
結婚前は明るい家庭を夢見ていた。
笑顔の絶えない明るい家庭。
それが現実はどうだろう。
会話のない薄暗い家庭。
音と言えば、テレビの音と物音ぐらいで、人間がいるとは思えない空間だった。
夜の営みなんて、いつの話よというくらいご無沙汰だったし、夫の達明は妻のことを女と見ていないと感じていた。
優香には不満がたまりにたまり、爆発寸前どころか、もう爆発していた。
今日こそ、離婚届を叩きつけるのだ。
優香はバイトに出ていた。
スーパーの品出しの仕事で、朝6時から8時まで働いていた。
だが、このバイトで暮らしていくことなど、到底無理なので、他の仕事を見つけなければならない。
離婚準備期間に技術を身につけようと試みたが、何をどう身につけたらいいのかわからないまま、今日に至ってしまった。
ひとまずは、夫から財産の半分をふんだくればいい。
というより、妻は夫の給料をやりくりしてきたから、お金は自由になったのである。
毎月、ちびちびと離婚のために貯蓄もしてきた。
少ないが、生活の足しにはなる。
これを元手に新しい生活をはじめるのだ。
未来は明るい。
展望はある。
根拠はないが、優香は前向きに離婚をとらえていた。
準備はしてきた。
ここで離婚しても大丈夫だろうか?
検討に検討を重ねて、このときのために備えてきた。
大丈夫、私ならやっていける。
優香は自分を奮い立たせて、今日を迎えていた。
夫はいつも通り、静かに夕食をとっている。
テレビの音だけが響いている。
優香自身はもうパジャマ姿だった。
寝る準備は万端。
優香は緊張していた。
引き出しからサイン済みの離婚届を取り出した。
テレビをいきなり消してやろうか。
いや、それだと、プレッシャーが余計にかかる。
ここはテレビを見ているところへ、静々と離婚届を突きつけるのがいいだろう。
優香は無言のまま、食事中の夫の横にすっと離婚届を出すと、置いたまま奥の部屋へと逃げ込んだ。
ドアを閉め、大きく息をした。
やった。
ついにやった。
夫はどう思っただろうか?
寝耳に水だったに違いない。
いつも通り、当然に妻がいると思ったら、大間違いだ。
優香は安心して床についた。
今日は眠れないかもしれない。
好都合なことに、夫は別の部屋で寝ている。
夫も考え込むだろう。
今日はお互い眠れない日だ。
翌日。
優香はいつも通り朝5時に目が覚めた。
いそいそとキッチンへ行く。
キッチンのテーブルの上に昨日の離婚届は・・・?
あった。
あったというよりは、ビリビリに引き裂かれた離婚届がそこにはあった。
「へえ~、そういうこと」
優香にはこれは宣戦布告のように感じられた。
闘いの火蓋は切って落とされたのである。
向こうは離婚する気などさらさらないようだ。
だが、こちらは離婚すること以外考えていない。
あの男と同じ空気も吸いたくない。
一旦、嫌いになると、とことん嫌いになるものだ。
さて、どうしたものか。
どうやって、夫を離婚するしかない方向に追い込んでいくか。
夫が不倫をすれば早い話だ。
不倫をされた妻として、堂々と離婚できる。
大手を振って離婚ができる。
だが、相手はあの男だ。
不倫ができるような肝がすわった男ではない。
度量もない。
出世もしないが不倫もしない。
結婚当初は、不倫ができない男として、安心できたものだった。
今では、不倫すらできない男として、誰か拾ってくださいと、お願いしたくなるくらい情けない男に見えていた。
女性の友人にハニートラップを仕掛けてもらってもいいかもしれない。
あの男を誘惑してもらい、不倫の決定的な証拠をつかんでもらうのだ。
しかし、あの男では申し訳ない。
あの男を誘惑してもらうという行為自体、申し訳ない。
詰み将棋のように、一手でも間違えたら詰まなくなってしまう。
相手は投了しなくなる。
ここからが勝負だ。
もうすでに、離婚届を叩きつけるという大きな一手は打ってしまった。
それに対する相手の一手が離婚届をビリビリに破るという、不届きな所業。
この一手に対して、どう対処するか。
次の一手は?
再び、離婚届を突きつけることも当然ある。
ただ、相手はまたビリビリに引き裂いてくるかもしれない。
それこそ堂々巡りだ。
探偵や別れさせ屋など、その道のプロに頼めば早いだろう。
すぐに離婚は成立するはず。
それにはお金の問題があった。
今後の生活のためにお金はとっておきたいし、あの男とただ別れるために大金をはたくのも癪だ。
何かいい方法はないものだろうか?
優香は腕を組んで考えた。
「あ、そうか!」
ひらめいた。
「単純に私が不倫すればいいんだ!」
いや、待てよ。
そうすると、不貞妻として自分の取り分が減ってしまう。
手っ取り早いが、お金が減るのは避けたいところだ。
「これよ!」
今度こそ、ひらめいた。
「不倫しているフリをすればいいんだ!」
そうだ。
そうなのだ。
こっちが不倫をしていれば、向こうも気が気じゃなくなる。
もしかしたら、向こうも不倫に走るかもしれない。
そこで、不倫の決定的証拠を突きつけて、こちらが有利に離婚へと持ち込むのだ。
こっちが不倫をしていたといっても、不倫のフリだけだから、証拠など出ない。
向こうはまんまと罠にはまって不倫をし、こっちは有利な条件で離婚ができるという算段である。
優香は計画を練った。
不倫のフリをするために、こそこそとスマホをいじったり、男性からの電話のフリをしたり、夜にこっそり出かけたりと、不倫のフリならいくらでもできる。
優香が不倫のフリをしはじめてから一ヶ月が経過した。
一つ屋根の下で暮らしてはいるが、会話は全くない。
全くの他人同士よりひどい有様だった。
ここに来て、相手に動きがあった。
友人からの連絡だ。
「旦那が駅前で若い女性と歩いてたよ」
目撃談が入ったのだ。
優香はショックというより、夫が見事に自分の術中にハマったことに笑いが込み上げていた。
単純な男。
でも若い女の子なんて、なかなかやるじゃない。
そんな気持ちだった。
その後も、同じ若い女性と歩いているという目撃情報が、あちこちに張り巡らせている友人アンテナに引っかかり、これはもう間違いなく不倫をしていると思われた。
だが、決定的な証拠がほしかった。
二人が一緒になってホテルから出てくるところを抑えたとか、決定的な証拠がなかった。
友人から相手の女性の写真を撮って送ってもらったが、若くてきれいな女性だった。
あの男が嘘でしょ? と言いたくなるくらいの女性だった。
妻の優香にはピンときた。
「不倫じゃない」
あの男は不倫でもないのに、若い女性と頻繁に会っているとは、どういうことだろう?
夕刻、優香は二人がよく目撃されるという駅前の喫茶店に入って、二人を待っていた。
もちろん、サングラスにマスクをした姿だ。
案の定、夫と若い女性は喫茶店に入ってきた。
そして二人は窓際の席で話をはじめた。
優香の席は遠かったので、二人が何を話しているのかは聞こえなかった。
三十分ほど話をして、二人は立ち上がった。
優香も慌てて二人の後を追いかけた。
バレないように距離をとって、尾行を開始する。
こんなことなら、探偵の本でも読んでおけば良かったと思いつつ、尾行をしていた。
どうも二人は付き合っているようには見えない。
優香の勘通りだ。
夫の様子からしても、何か女性に頼んでいるように見える。
自宅近くまで来たところで、二人はわかれ、夫は自宅へと戻っていった。
優香は女性の尾行を続けた。
女性は何者だろう?
不倫の相手ではないとすると、夫とどんな関係だろう?
同じ会社の人間とも思えないし。
若い女性は駅前の方へ戻っていくと、電車の改札口をくぐった。
優香も慌てて改札を通った。
今は電子マネーがあるから、切符を買わなくて済むのはありがたい。
女性と一定の距離を保って、電車に乗り込む。
女性は名古屋駅で降りると、駅の裏口から出て歩きはじめた。
どんどん寂れた通りに入っていく。
夕方とはいえ、辺りはどんどん暗くなっている。
優香がいよいよ心配しはじめた頃、女性がとある建物に入っていった。
雑居ビルだった。
入口の様子をうかがいながら、優香も入ってみる。
その建物は入ってすぐに古ぼけたエレベーターがあった。
エレベーターが昇っていく。
5階で止まった。
優香はすぐに、案内板を見て、5階にどんな会社が入っているのかを確認した。
「未来創造コーポレーション?」
案内板にはそう書かれていた。
恐る恐るエレベーターに乗り込むと、5階のボタンを押した。
狭いエレベーターだった。
5人も乗ればいっぱいになるくらいの。
チンッ。
レンジのような音で5階に着いた。
すると、どうだろう。
男女合わせて10名くらいの人だかりが優香を出迎えてくれていた。
拍手で迎えられ、さあ、どうぞと手をひかれて優香はエレベータを降りた。
会社の中へと連れられていく。
「さ、さ、奥さん、お待ちしておりました」
優香は手を引かれて中へと入った。
「あ、あ、あの?」
「申し遅れました。私どもは、あなたの将来を考える未来創造コーポレーションと申します」
「あの、あの、私は別に」
優香は新手の詐欺ではないかと心配した。
「大丈夫ですよ。我々はあなたの将来を考えていきますから」
「え、え?」
これはどうせ夫が離婚したくないものだから、依頼した業者に違いない。
夫は業者に頼んでまで離婚したくないのか。
優香は呆れていた。
どうせ、離婚するなと説得がはじまるのだ。
離婚すると、生活費やお金の面で苦労しますよとか、旦那さんはここがいいところですよとか、苦労するからやめておきなさいなどと、説得されるに決まっている。
ふざけた真似を。
あの旦那がやりそうなことだ。
奥の部屋に通されると、優香は身構えたまま腰を下ろした。
代表者らしき男性が目の前に座り、優香の横にはあの若い女性が座った。
「さて、あなたの離婚後のことなんですが」
「は、は?」
てっきり離婚するなと説得されると思った優香は意表を突かれた。
「お仕事のことです。こちらでリストアップしておきました」
仕事の斡旋業者だろうか?
仕事をさせて離婚から目をつむれということだろうか?
「離婚後は何かと大変になると思いますが、安心してください。我々が全面的にバックアップしていきますから」
話がどうも見えてこない。
一体、何を言っているんだろう?
「あの、主人から何を依頼されたんでしょうか?」
優香は思い切って聞いてみた。
「はい、ご主人様からは奥様の離婚後の生活を考えてやってくれと言われておりまして」
「離婚後? え?」
「ええ、離婚しても奥様がご苦労されないように、くれぐれもよろしくお願いしますと依頼されました」
「ええ!?」
「奥様のことはいろいろうかがっておりますよ」
にこにこしながら相手の男性は言った。
「・・・」
「ご主人様は離婚やむなしとお考えです。最初は離婚などもってのほかだと思われていたようですが、お考えを変えられたそうです」
「変えた?」
「ええ、奥様が離婚後も今の生活レベルを維持できるように、陰ながら支えていきたいとおっしゃっております」
「あの男、じゃなくて、あの人が?」
「ご主人様は奥様の幸せを本当に願っておいでですよ」
「あの人・・・」
優香は動揺が隠せなかった。
遅ればせながら、夫の愛情を久しぶりに感じたのである。
「離婚の条件も、奥様の思う通りでいいそうです」
「・・・」
「あとは離婚後のお仕事ですね。一緒に探していきましょう。なあに、大丈夫です。奥様ならやっていけますよ。ご主人様も奥様なら自分よりずっと稼げるだろうと、おっしゃってましたから」
「・・・」
「ん? どうしました、奥様?」
優香は泣いていた。どういうわけか、涙がこぼれた。
自分が情けなく思えていた。
それから一週間後・・・。
優香と達明はまだ夫婦をやっていた。
相変わらず、会話はほとんどない。
けれども、少しずつ会話は増えるようになってきた。
お互いのサインをした離婚届は額に入れて飾ってある。
いつでも離婚できるようにスタンバイしているのだ。
だが、離婚はしなかった。
もう少し様子を見ましょうと、優香は決めたのだ。
あんな男、と思っていた夫のことを不覚にも見直してしまった。
全く自分は見る目がないと、ぼやいている毎日である。
「はあ~あ、しょうがないか。私が選んだ人だもんね」
優香はふっと笑って、夕飯の準備をしはじめた。
終
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