見出し画像

「合理的」の影響は何をもたらすのか(3)【公立学校の先生の定額働かせ放題という発見】

合理的思考と教育について考えています。前回はこちら。

現代人が合理的思考に囚われいることの最大の理由は、やはり経済合理性について、シンパシーを持っていることでしょう。

大阪城公園や東京の宮下公園の有料化(収益化)について、好意的にとらえる人が多いのはその好例ではと思います。
「公園だろ? 何で金を取るんだよ」という考え方は、少数派になりつつあるのでしょう。

経済合理性の思考をベースに考えると、人間の「労働」も経済合理性の中では、当然「商品」として組み込まれます。そうなると、給料とはいえ、カネを払う側から見ると、労働の価格は気になるところでしょう。

労働を商品としてみると、価格はどのように判断するかとなると、やはり、「時間」と「(仕事の)質」ということになります。

本来なら、長く仕事をした人や仕事のクオリティの高い人が一定の給料をとることは、経済合理性においては、当然の流れになります。
程度問題はあるものの、民間企業はこれに準じる流れで機能しているのではと思います。

ところが、公立学校の先生(場合によっては私立学校の先生)は、これに当てはまっていません。

このニュース、悪意の視点で見ると、結構ヤバいなと感じます。

というのも、雇う側(結局は国なのでしょう)が、「現在の公立学校の先生の労働環境は、雇う側には、結構いいんじゃね?」と思っていることを示していると思うからです。

このニュース、平たく読み解くと、「いまの待遇じゃあ、やっぱりヤバいから、ちょっとだけ残業代上げとくか」みたいな思考が透けて見えるからです。根本的な改善なんてやる気なし。だって、いい制度なんだもん!ということでしょう。

月8時間の残業に相当する基本給4%分の「教職調整額」が一律で支給されているという現実は、まさに労働のサブスクリプション。定額働かせ放題であることは間違いない。

では、なぜそのようなブラックな思考が生まれ、悪魔のささやきに飛びついているか。それは、やはり経済合理的な思考なのでしょう。

「せっかく、定額で働いてもらえるのに、限界近くまで働いてもらわないのは、損だ」という思考を「発見」し、この思考を是認している。もしかして、疑ってすらいないのかも。これはやはり誤った合理性の思考の帰結と言わざるを得ない。

行政が、このことを「発見した」ことが運用に無理を生じさせ、結局は教員不足になっている。当然の帰結であり、同情の余地はないと感じます。解決策は、学校の先生の待遇改善しかない。これは、決して税金の無駄遣いではない。

これも社会が変わったことで、変化した思考だと言えるでしょう。合理的な思考は、必ずしもいいことばかりではないということではと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?