絶対にバッドエンドを選んでしまう症候群

カウンセリングに通い始めたきっかけ

今年の3月から、カウンセリングに通っている。
通い始めたきっかけは、あることで大きな挫折を味わったからだが、でも、挫折感だけならカウンセリングの扉は叩かなかった。

挫折感が異様に長引いたこと、あまりに気持ちの乱高下が激しいこと、思考に集中できなくなったこと、何をしても苦しくなり、何も手につかなくなり、何を食べても味のないスポンジを噛んでいるような感覚になったこと、世界から手触りがなくなり膜を通して景色を見ているような感覚になったこと、時間の感覚が不連続になったこと。
「どう考えてもマトモじゃない」と思った。だから、生まれて初めてカウンセリングに通うことにした。

カウンセリングに通い始めた時は、すぐに苦しみは消えるだろうと思っていたし、消えてほしいと思っていた。しかし、僕の心の問題は、自分が思うよりも根が深かった。

初回のカウンセリングで話したことは、よく覚えていない。
ただ、狂いそうなほどの苦しみと、これまでの人生と家族のことをつらつら話していた気がする。

カウンセリングでわかったこと

愛着障害だとわかった。
愛着障害については、ここでは深堀りしない。
具体的にはここを見てほしい。
ただ、自分は愛されなかった。ずっとひとりだった。自分のせいじゃない。
それだけ。

自分が愛着障害だと打ち明けたところで、何かが良くなるわけじゃない。
むしろそれで離れてしまう人もいるだろうな。
それで離れてしまうなら、しょうがないよな。きっと、遅かれ早かれ離れてしまう人だろうから。


本当に話したいことは、愛着障害の自分がどんな景色を見ているか。
パッと見、普通の世界で生きてる自分が、どんな世界で生きているか。
それを知ってほしい。理解しなくてもいいから、知っておいてほしい。


絶対にバッドエンドを選んでしまう症候群

バッドエンドは苦しい。当然だ。
苦しいのは嫌だ。当然だ。
苦しいものは苦しい。つらい。
しかし、「苦しい」と感じる中でしか生きてこれなかった。
苦しいのが嫌いで、苦しめられるのが嫌いなのに、結局帰ってきてしまう。

何をするのも怖い。だけど、苦しんでいるのが、いちばん怖くない。それは、慣れ親しんでいるから。ずっと苦しかったから。
気づいた。幸せを絶対に否認する人間だということに。
「自分は幸せになってはいけない」と、思っていたのだろうか。もしかしたら、そうかもしれない。
幸せになるのが、怖い。



チャンスが来ると、やる気がなくなる。チャンスが怖い。成功するのが怖い。だから、チャンスのある場所に行けない。チャンスを他の人に譲ってしまう。
やさしくされるのが、怖い。本当はやさしくされたいのに。「ありがとう」って言いたいのに。だから、やさしくしてくれない人を選んでしまう。
褒められるのが怖い。本当は褒めてほしいのに。「嬉しいです」って言いたいのに。だから、認めてくれない場所に居続ける。
プレゼントをもらうのが苦手。本当は欲しいのに。だから、素直に「ありがとう」って言えない。
大事にしてくれそうな人から離れてしまう。大事にしてくれそうな人を疑ってしまう。本当は一緒にいたいのに。俺も大事にしたいのに。大事にされるのが怖い。大事にするのが怖い。「一緒にいてほしい」って、言えない。

そして、「また、大事にされなかったね」というのを確認する。「自分を大事にしてくれる人なんていないんだよ」というのを確認する。そっちの世界のほうが慣れ親しんでいるから。
バッドエンドの中でしか生きられない。

選びたくてバッドエンドを選んでいるわけじゃない。ただ、バッドエンド以外のものが怖い。消去法として、慣れ親しんだバッドエンドを選んでしまう。

ごめん。
俺は謝らないといけない。
せっかくチャンスをくれたのに、それを無駄にしてしまったこと。
せっかくやさしくしてくれたのに、それを断ってしまったこと。
せっかく褒めてくれたのに、それを素直に受け取れなかったこと。
せっかくプレゼントを用意してくれたのに、ちゃんと喜びを感じられなかったこと。
せっかく俺に興味を持ってくれたのに、離れてしまったこと。冷たくしてしまったこと。

ただただ、全部怖かった。

なんなんだろうって、思うよ。


楽になれない。楽しむことができない。いい場所、いい環境にいてはいけない気がする。
「ほら、やっぱりできなかったね」「ほら、やっぱり叶わなかったね」というのを確認する作業。

人が怖い。本当は人が好きなのに。人とつながりたいのに。本当はさみしいのに。
何度も何度も「自分はひとり」「自分はなにもできない無能」というのを確認する作業。

わかっているのに、むしろわかっているから、自らバッドエンドに飛び込んでしまって、傷つくことを選んでいる。

こんな生き方、やめたい。
馴染みがない。馴染みがないものは怖い。
幸せに馴染みがない。幸せが怖い。

生きづらさを感じているが、生きづらくないといけない。
「苦しんでいる」というのが、自分のアイデンティティの一部になってしまった。こんなにつらい人生はない。


ちょっとだけ、変わったこと。

カウンセリング受けてよかった。幸せを否認する自分に気づけた。
幸せになるのが怖い自分に気づけた。
人も、何もかもが怖い自分に気づけた。
怖いのをごまかして、心を殺して、恐怖を感じないようにして生きてきたことに気づけた。


幸せになりたい。というより、苦しみから抜け出したいが、苦しんでいないといけない自分。この気持ちが何なのかわからない。
居心地が悪くて、そこにいられない。
わざわざ、自分が傷つくようなものを見てしまう。傷つけられるような場所に行ってしまう。


全部、なかったことにできたらいいのにな。

頭も心もおかしくなる。狂ったままでは生きていけないので、心を抑えつけてきた。多分、30年くらい。本能が「生きろ」というので、かわりに心を殺してきた。
でも、抑えつけるのが限界になったのが、今年の3月だった。

いま、心身がどうにもならない。調子がいい時と悪い時の差が激しい。
ずーっと鬱々としているわけじゃない。落ち着いている時もある。
普通に話せるときもある。笑う日もある。冗談を言う日もある。

ちょっとずつ、コピーを書いている。そんな日もある。
書くことで、気持ちが楽になる。その程度まで落ち着いている日がある。
コピーを書いている時、カーテンの隙間から、紙の上に、秩父の山々へと沈む太陽が滑り込んでくる。それを美しく、懐かしく感じる。

でも、さっきまで笑っていたのに、急に何もできなくなる。
首を絞められるように、苦しくなる。頭から喉にかけてヘドロが流れ込んでくる感覚。
胸から胃にかけて、穴が開いたような感覚。
助けてほしいのに、助けを求められない。
何もできない。ひたすらに波が過ぎ去るのを待つしかない。

会社には行っている。行くのが大変な日もある。
だけど、会社にいないと自分が自分に何をしでかすかわからない。
家にいて、何もしてない時間が苦しい。


落ち着いて暮らしたい。そう思っている。
好きな人と、好きな場所で。好きな人のいる場所が、好きな場所で。
雨の日に、傘を持って駅まで迎えに行く日常。
金曜の夜、TVを見ながら一緒にお酒を飲み、夜中の2時までソファで眠り込んでしまう日常。
特別なことがなくても、それでいい。安心できる場所が欲しい。
好きな人のいる場所が、安心できる場所。だから、家も傘もTVもお酒もソファも、無くたってかまわない。
でも、いざ安心できる場所が手に入りそうになっても、きっと怖くなってしまう。「怖くないよ」って言ってもらえたら、きっと大丈夫なのにな。


こんなに、自分がボロボロだとは思わなかった。
なんとなく、生きづらいなとは思っていた。なんで普通に生きられないんだろうと思っていた。

知ってよかった。謎が解けたような気がするから。
でも、知らないほうがまだ楽だった気もする。

フッと、消えたくなる。ロウソクの灯を消すように。
何もなかったことにしたい。
明日の朝起きたら、全部忘れていればいいのにな。

池に飛び込んだら、気持ちいいだろうな。気持ちよく、全てを終わりにできるだろうなって思う。
でもそれは憧れであって、終わりにする勇気もない。


早く楽になりたい。元通りではなく。

最近は、相変わらず人は怖いけど、怖いながらにビクビクしながらやり取りしてる。
思ったことを、素直に言うようにしてる。だから、自分の言葉は、全部本心だ。
何も言えないというのも、また本心だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?