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夏空、夏風、夏の爽 3 (短編)

10月1日の人事発令で
僕の隣の部署の部長代理、夏風爽一が
地方に異動になることが決まった。

彼は冷静沈着、
飄々と淡々(坦々)としていており、
泰然自若を絵にかいたような男。
僕はいつの間にか、
年下の彼をリスペクトしていた。
彼がどんなふうにあれほど達観し、
人心掌握力を身につけてきたか、
知りたかった。
彼の人生観や哲学を聴きたくて、
飲みに誘ったりしてきた。
そして、頻繁に煙草部屋を覗いては
彼の姿を探した。

9月末、夏風の異動の内示が
社内で公開となった翌朝、
彼は煙草部屋には向かわず、
同じフロアにある珈琲ショップに、
ひとりでいた。
窓際の席で、熱いコーヒーを啜りながら、
外の街並みを見えていた。

僕はできるだけ静かに近寄り、
声をかけた。「ひとり? 隣、いいかな」
どうぞ

「異動発令、見たよ。東北だって?」

そうです。仙台です

「久しぶりに本社から出るんだな」

ええ、フロントラインで会社を守りますよ

「どんな感想?」

どんなって、…わくわく感です。
どんな物語が待っているか、
決してつよがりではなく、
WHO WANDER WHAT HAPPEN!です

「相変わらず、ポジティブだな」

以前言ったじゃないですか。
僕には他に満たされていることがあるから、
別に職場が変わっても、全く問題ないです

「さすがだ。欲張らないということか。
なかなか君のようには考えなれないよ。
でも当面は、
向こうでの不慣れな業務を
覚える必要があるし、
地理や人間関係も然り。
50歳過ぎた男が、
なかなかしんどいのでは?」

僕はこれまでも、そういうことは
何度か経験してきましたから。
20代から30代の頃は、
異動がしんどかったです。
でも解決方法を見つけたのです。
異動したら、新天地で、
分からないことを
その場で恥をたっぷりと晒しながら訊く。
そして、教わったこと、覚えたことを、
こまめにメモして、ノートにまとめるのです。
同じことを何度も質問したら、
相手に迷惑ですから

「偉いね。俺も若い頃はそんなことをしていたよ。」

年齢は関係ないですよ。
新しいことを学ぶのに、
年齢は関係ない時代です。
ノートにまとめるのは、
相手や周囲のため以上に
自分のためです。
僕は、以前、カッカしてイライラしていた頃、
ある先輩から一冊の岩波文庫を渡されたのです。
ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」です。
あれを読んで、僕は変わったのだと思います

「へぇー、それは興味深いな。どんな内容なの?」

今からおよそ2000年前、
マルクス帝は、国を統治する重圧にある自分の
悩みやモヤモヤをノートに記していったのです。
その内容が「自省録」。
人生がいかに短く、
素早く生々流転していくものか。
自分の悩みがいかに主観的なものか。
先々のことを恐れることなかれ。
君は君自身の持ちうる力で、
さまざまな壁を打開していくだろうと、
自分への手紙とも言える筆到で
綴っていったのです

「岩波文庫だから、どこか読みにくそうだが」

私も最初そう思いました。
でも、読み進めると、
実は恥ずかしいのですが、
なんと言うのでしょうか、
・・・涙が止まらなくなりました。
救われた気がしたのです。
2000年前の偉人も、現代人と同じ悩みを
抱きながら、その夜を過ごしていたのかと

「えっ」

特に、その中の一節に、
「宇宙即変化、人間皆主観」
という言葉があります。
全ては日常に紛れ、千変万化していく。
今日、自分がかいた恥や、おかした失敗などは、
10年後、誰も覚えていない。
全ては無(客観)だと。

要は、つわものどもが夢の跡。
だから、心配せず、気を患うことなく、
もっと気軽に、堂々と、
へっちゃらで(飄々と淡々と)進めよと

「そうか、それが、夏風君の底辺に流れる
思想なんだね。」

あの本を読んでから、僕は自分の感情、
吐き出したい思い、袋小路の悩み事を、
手帳に書き続けてきました。
すると不思議なもので、
少しずつ頭が整理され、感情が整ってきて
答えが降りてくるのです。
まるで黒闇に光が差してくるように。
書くことがいかに大切か知りました

「そうか。俺も読んでみるよ。
まずは岩波文庫への先入観を捨てるよ」

あっ、先輩、そろそろ行かないと。
人事発令の件、朝礼で挨拶しておかないと

「そうだな、急いで。」

僕は彼に大切な何かを
聞き逃している気がしていた。
しかし、彼は夏風のように、
またも颯爽と立ち去った。
窓の外、
秋の深まる兆しを帯びた街並みが見えた。
(短編・完)

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