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遊び人がもしかして役割なのかもしれない

勝負と妄想が大好きだった子ども時代

前回、成功や損得に全く興味がないことに気づいたので、何に興味があるのか考えている。踊りは当然だから置いておく。

遡って考えてみると、子供の頃は妄想の中でほぼほぼ生きていた。現実世界に長くいるようになったのは結婚してからだ。
7人家族の商売屋で嫁いで姑に一から教えてもらって朝から晩まで家族の世話に明け暮れていた。とてもじゃないけど妄想する暇などなかった。敬語と丁寧語でしか話していなかった気がする。

あと、子どもの頃は勝負が大好きだった。勝っても負けても勝負が好きだったから、要するに真剣が好きだったんだと思う。

知らないことを知るのが好き、わからないことが好き、知への興味がありそう。

感覚的なものが好き

布を触るのが好き、紙を触るのが好き、風が頬を撫でる…触感にこだわりがある。紙を触る音、低音の声、雨音、音もこだわりがある。

春草の匂い、森の匂い、木の匂い、雨の日の匂い、蝋燭の匂い、薪ストーブの匂い、革の匂い、布の匂い、漆の匂い、紙の匂い…匂いもうるさいな。

図書館の本、全部読もうと思うくらい読書は好きだった。漫画も大好き。アニメも好きだった。

興味があるものは思ったよりたくさんあるみたい。結局大人になると仕事になるか、役に立つか、という周りの価値観に負けてしまう。遊んでいる、で全部集約されてしまうからだ。

役割を遊び人にしてみたらどうだろう

人は誰しも存在するだけで場に作用していると思う。とすると、私の場合は遊んでいることに特化した役割があるのかもしれない。そう考えるとなんか楽しいし、無意味なことを思い付いてもワクワクできる。

最近学んだり、役に立つのにうんざりしていたので、朝起きた時点で行きたいところにいくことにした。

山か海に行きたいと考えていて、海が見たくなって遠州灘に行った。


ボーっと眺めたり、ストレッチしたりジャンプしたり動いてた。周りは釣り人、サーファー、カップルばかり。どんどん波に近づく私はかなり不審者だったかもしれない。

波打ち際でギリギリまで行って足跡つけて波に消してもらったりして遊んでた。


海を眺めていると自然を畏怖しながら崇拝する気持ちがよくわかる。人が一部にしか過ぎないのも痛感する。

海と陸の境界線などどこにもない。全ては常に変化している。

兎にも角にも自分は踊りながら仕事しながら生きている。出会う人にも恵まれて家族にも恵まれている。これから先は当然変化していくけれど、過去にも今にも未来にも感謝している。今の偽りのない気持ちだ。


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