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宮崎駿と同時代に生きる幸せ

ジム後、吉野家へ。店内では、牛丼のあたま(具)をよそう為の「オタマ」が牛丼調理のベストプラクティスを実現するために、これまで如何に試行錯誤され、開発されてきたかのアナウンスが流れている。このプチプロジェクトX的な何かの喧伝は、この世界がどこまで行っても資本主義の掌の上で駆動しているかを露呈させている。牛丼を食べる時でさえ、その情報は耳へ入れねばならない情報なのか。「おお!だからツユが均等にご飯の上にかかってるのか!これは素晴らしい!オタマの開発者に敬礼!いつもよりも牛丼が美味く感じるぜ!」という具合に。ひっそりと開発しておいてもらうことは出来ないだろうか。

〈国境なき医師団〉は今日も駅前で募金のアピールしているが、〈国境ある医師団〉はその時何をしているのだろう。〈国境ある医師団〉も頑張って欲しい。

「生物学的に〜」という枕詞が、男女のジェンダーについての見解を述べる際の前置きに使われることがあるが、生物学的に本当にそのようなことが語られているんだろうか。具体的にどの文献で?例えば、オスはメスより力が強いとか、メスはオスより子供の面倒を見るほうがより最適というようなこと。もう少し突っ込んでいうと、よしんば生物学的に説明されていたとしても、その学説が発表された時代の家父長制的なマインドが幅を利かせていたジェンダー構造を前提としたオーディエンスのために語られている可能性もある。この辺りは注意深く見る必要がある。

ナイツ塙の「言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)」を読む。漫才は〈しゃべくり漫才〉と〈コント漫才〉に分けられること、関西は〈しゃべくり漫才〉の本場であること、M-1は吉本主催の大会であり他事務所、関東芸人のハードルが高いこと、ナイツ塙はバリバリの松本人志信者である事などが、発見や驚きを持って胸に残る。特に私は中川家の漫才の台本が10行くらいしかない、という事実に驚愕した。とんでもねえ。完全に吉本帝国であるお笑い界の中で、関東芸人というマイノリティとしての目線からの分析は構造的であり、実に冷静である。また、本書全体を貫くのは、審査員になったとは言え、まだ依然現役バリバリのプレイヤー(漫才師)である状態でM-1、漫才、各コンビの評論をするナイツ塙の緊張感である。芸人へのリスペクトは勿論、ウィークポイントまで、本音に近い私観によって逃げずに語られていると感じる。芸人は芸人の世界に必ず100中100をベットしている。私には、その姿勢がいつも眩しいのだった。

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書) | 塙 宣之 |本 | 通販 | Amazon

「君たちはどう生きるか」を観た。実家に帰った際に、近所のAEONシネマに母親と観に行く。ガラガラのIMAX。終活としての自己確認と後進へのギフトの譲渡がテーマと言えばテーマで、下西風澄さんのnoteがほぼ答えと思う。これは久し振りに唸りまくった。

宮崎駿の悲しみと問いかけ─『君たちはどう生きるか』|下西 風澄 (note.com)

カオティックな映像、全編に渡る不気味なムード、どろどろして柔らかそうな小さい生き物、アニミズム的な何か、気の強そうな眼差しの少女など駿トップギア、アクセル全開。これまでの作品のフラッシュバックも匂わせつつ、パラレルワールドを行き来するキャラクター達の暗喩に満ちた表現の連続。難解なフランス映画などを最後まで逃げずに観る力がある人や、これまでのジブリ作品(高畑勲含め)を深追いしてロジカルに分析して来た人は楽しめる。ネットや仲間内でわいわい批評するのにはとても良いが、女子大生が合コンで「私、ジブリの映画が好きなんです〜」というにはちょっとハードル高め。三代目柳家小さんと同時代に生きる幸せがあるように、宮崎駿というクリエーターと同時代に生きる幸せというのは、ある。

我がバンドroom202のアルバムを2枚(「good-bye room」「room’s up」)を今更ながらサブスク配信開始。さあ、行け!インターネットの荒野へ!
good-bye room by room202 | TuneCore Japan (linkco.re)
room's up by room202 | TuneCore Japan (linkco.re)

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