イターシャ・L.ウォマック『アフロフューチャリズム』読書会/2022,10,9

*2022年10月9日収録
全文無料のカンパ制→ぬかるみ派次号の制作費にあてられます。

幸村燕 (ゆ)
韻踏み夫(い)[ゲスト出演]
小川紘輝(お)
レガスピ(れ)

導入


れ まず、この本(『アフロフューチャリズム』)を日本に紹介してくれたのは偉いし、いいことだと思いますが、2013年出版の本なので少し古く、この本の内容も修正が必要な気もします。テクノロジーに対してすごく信頼が厚くて…まあいいんじゃないですかね。あと驚いたことに、ポール・ギルロイの名前が出てこないんですよね。イギリスのカルスタの人で、『ブラック・アトランティック』を93年ごろに書くんですが、「アフロフューチャリズム」という言葉が出てくるのも同じ頃なんですよ。ここに取り上げられているコドウォ・エシュンもギルロイの文脈で書いているところがあるので、触れるぐらいはしてほしかったですね。基本的にずっとカルチャーの話をしているので、そこらへんが手薄になるのは仕方ないとしても…

い なんとなくレガスピさんがムカつく理由がわかる気はする(笑)。著者はゴリゴリの批評家ではなくジャーナリストなので、たしかにぬるいところはある。僕はアフロフューチャリズムのカルチャーが好きなわけではないけど、ヒップホップ専門としては避けて通ることはできず、その中に考えるべき論点はたくさんある、という感じで手に取った。だけど、本の感想としては大和田さんの解説だけで十分に思える。そのあとはパラパラ読み飛ばすくらいでいいや、という温度感ですね。

れ こういうアフロフューチャリズムの作品があるんだなあ、みたいな。

い どう話広げよう?

ゆ そうですね……

い 僕が面白い・大事だと思ったのは、ブラックネスはテクノロジーだという話です。なぜアフロフューチャリズムでテクノロジーを重視したSFがいっぱい出てくるのかというと、そもそもブラックネス自体がテクノロジーだからだ、と。構築主義的なノリですよね。それまでの黒人文化論はその身体性が強調されるのが基本だったけど、想像力へ重点が変わったという流れの一つとも言えるかと思います。そしてその政治性、つまり白人の統治・レイシズムに対してその道具となるテクノロジーを逆利用して抵抗する、というアフロフューチャリズム論の基本的な発想・戦略は、すごく大事だと思います。

ゆ レガスピさんはどうですか?

れ 僕は今回ぬかるみ派にアフロフューチャリズムの概念の系譜を探る文章を寄稿したんですが【注:詳細は倉井斎指「アフロフューチャリズム試論」(『ぬかるみ派 vol.02 特集=加速主義』所収)を参照】、その点で気になるところがあります。たとえば17頁に、「アフロフューチャリズムは、SF、歴史小説、[…]を非西洋的な思想と結びつける」とありますが、ここに「アフリカ中心主義」が並列されている。しかし、コドウォ・エシュンのアフロフューチャリズムの論考【注:Kodwo Eshun (2003), "Further Considerations on Afrofuturism," を参照】では、アフロフューチャリズムとアフリカ中心主義(アフロセントリズム)をちゃんと区別しています。簡単にいえばアフリカ中心主義は「アフリカの方がすぐれている」と言っているだけ、ヘーゲルでいう主人と奴隷をひっくり返しただけです。たとえばアメリカでは1956年に『奪われた遺産(Stolen Legacy)』という、古代ギリシャが古代エジプトから知恵を盗んだと告発する本が出ています(デマですが)。これが60年代の公民権運動やブラックパワーなどの文化政治的な運動につながる。

い イエスが黒人だったみたいな。

レ まさしくそうです。アフロフューチャリズムは、そうしたアフリカ中心主義から手を切っている必要があるというのがコドウォ・エシュンの主張です。しかしそういう文脈をまったく顧慮していない。
 それにかぎらずこの本は並列が本当に雑です。例えば48頁の「このような人間性の摩擦は…」という段落で、「人間は他者の人間性を奪ってきた」ことの歴史的証左として、「大西洋奴隷貿易、アメリカのジム・クロウ、南アのアパルトヘイト、ホロコースト、旧ユーゴやルワンダの民族浄化」みたいなふうに並列するのは、本当にダメなのではないか。文脈を顧慮せずにわざとシンプル化しているところにモヤモヤしてしまいますね。

い コドウォ・エシュンもそうですが、ブラックナショナリズムやアフリカ中心主義は運動としては重要なんだけど反動的なところがあるから、その硬直性に対して、80、90年代以降、アフロフューチャリズムのような「黒人っぽくない黒人性」を論じる動きが出てきた。だからそれとアフロセントリシティを並列するのは雑かもしれないですね。

ゆ それこそ、ブラックネスこそがテクノロジーである、という話は、154頁にもある疎外=エイリアン化のように、絓秀実のいうような疎外されたものの技術性という議論 【注:絓秀実『小説的強度』(1990年、福武書店)を参照。】につながるところがある気がするので、そうなるとアフリカ中心主義とはズレたり、相反するところがありますよね。

れ 今度僕がぬかるみ派に出す原稿が全くそういう話です。たとえば黒人音楽の例を出すと──これは野田努の『ブラック・マシン・ミュージック』に全部書いてありますが──、80年代にテクノが出てくると、ファンクのような身体性に裏づけられたアフロアメリカンの音楽が、機械によって身体性から切れていく。デトロイトテクノのオリジネイターのホアン・アトキンスのアイデア源が1982年に出たアルヴィン・トフラーの『第三の波』なんですが、これの冒頭がすごくて、「世界は狂ってなどいない」と言っているんです。これが出た翌年にレーガン政権が成立し、核軍備競争が起きると。核もテクノロジーなので、アフロフューチャリズムにおけるテクノロジーは今あるテクノロジーとは違うものと想定しなきゃいけない気がしているんですよね。

グレッグ・テイト/「アフリカ」との関係

い アフロフューチャリズム万歳、というふうには、これを読んでもそんなに説得されない。僕が興味あるところで言えばグレッグ・テイトという批評家が出てくる。この人はジョージ・クリントンやマイルス・デイヴィスについても書いてたりして、かつヒップホップ批評の元祖のような人で、僕もリスペクトしてて、「黒いロラン・バルト主義者が必要だ」みたいなカッコいいことを言ってる。そういう、黒人文化論に現代思想を導入しようとした人がアフロフューチャリズムにもいち早く反応していたわけで、つまり批評言語の変化ともアフロフューチャリズムは相即していたという歴史性は確認しておくべきだとは思う。

れ グレッグ・テイト最近亡くなりましたよね。

い そうね。翻訳が出るらしいんだけど…出てほしいですね。身体性とサイボーグ性(ダナ・ハラウェイ)が大事になってくると思う。トリーシャ・ローズという、ヒップホップ研究を確立した人が、ヒップホップは身体的なグルーヴ性と機械=テクノロジーの両方が混ざり合ったジャンルだと言っている。だからそのへんですよね。文化的には面白いけど、政治的に有効かはわからない。分析の面白いところは多々あると思いますね。

ゆ グレッグ・テイトの言う「黒いロラン・バルト」っていうのは、あのロラン・バルトですか?

い そう。キュアロランバルト【注:幸村燕のTwitter上でのハンドルネーム】 のロラン・バルト。1980年代は黒人研究でポストモダン読もうぜ、みたいな新しいノリが出てきて、アメリカではアカデミーだとヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアやヒューストン・A・ベイカー、在野だとグレッグ・テイトなんかが出てきた。60年代の「政治の季節」には新左翼的な言葉でジャズ・ソウルを語っていたんだけど、それでは政治的すぎて窮屈だということで、批評言語を刷新しようとしたのがグレッグ・テイトたち。文化史的にアフロフューチャリズムが出てきたのもおそらくそういう空気のなかでのことなので、「それまでの黒人のステレオタイプから外れる黒人」みたいな批評性があったはず。

ゆ 80年代にロラン・バルトが注目されるのは個人的に面白いです。1980年のバルトの死後、バルトに関していろいろわかってくるんですが、『彼自身によるロラン・バルト』の「左利きであることで社会から自分が排除されている」と言っているように、自分から自分が排除されている感覚があった。それと、疎外されている黒人像じゃない黒人というのが、近いというか、ロラン・バルト的なものがラディカルな文化批評として映ったというのはありそうな…

い グレッグ・テイトみたいな人が出てくるまでは、黒人文学自体が評価されず、バルトみたいなイケてる文芸批評の方法論を適用して分析するに値しない、みたいな暗黙の差別的なノリがあったと思うんだけど、それに抗ってみんなでやったわけですよね。ギルロイもヘーゲルとブラック・ディアスポラの知識人のあいだの関係を思考しようとしたり、西洋思想をガッツリ読める人による黒人研究が出てきた。

アフロフューチャリズムとアフリカ

い レガスピさんはギルロイはどうですか?アフリカ研究者から見て。

れ ギルロイ、90年代のレゲエを褒めてて…そんな褒めるもんかな、という。

い 音楽的な趣味が合わないとか?

れ それもそうですけど、単純に、ああそうですか、とはなりますよね。

い それで言うと、アフロフューチャリズムというのがアメリカ中心的すぎるので、アフリカのアーティストはアフリカン・フューチャリズムと呼んでる、みたいな話がありましたが。

れ アフロフューチャリズムというのはインクルーシブな概念だ、とウォマックはインタビューで言ってたけど 【注:押野素子「『アフロフューチャリズム ブラック・カルチャーと未来の想像力』著者インタヴュー」(note)参照】、僕は「全然そんなことないけどなあ」って思いましたけどね。アフロフューチャリズムの文脈ではエイリアン化の契機のために奴隷貿易を挟まなければならないから、そうなってないアフリカ人は何なんだという話になってくるわけで。この本でも、申し訳程度にタンザニアのSF映画が一本だけ出てきますが、ほとんどアメリカの文化の話なので…

い アフリカン・アメリカンの人々からすれば、失われた故郷がアフリカですよね。失われた過去がアフリカに眠っている。だけど奴隷制によってそうしたルーツから切り離された上に、アメリカでは差別されているので、過去と未来の混ざり合った想像のトポスとしてアフロフューチャリズムが出てきたと。でもアフリカに実際に住んでいる人たちからすればそれはどうなんだ、というのはありますよね。

れ 例えばリベリアは解放奴隷の建てた国ですが、それもアメリカの奴隷主人からしたら厄介払いするのに都合がいい、言ってしまえば受動的革命の側面はあるんですよね。

い よく言われるやつですね。マーカス・ガーヴェイに代表されるような、アフリカに帰還しようという主張がなされてきたけど、案外白人はそれでいいよ、となって、反抗にならないこともあった。

れ この本、「アフリカ」の例としてエジプトの話が出てきますけど、エジプトはアフリカのめちゃくちゃ北(マグレブ)なので、それを「アフリカ」とまとめていいものか、というのはありますね。「アフリカ」というと基本的にサブサハラのことだし…

ゆ サハラ砂漠より上はどう分けてるんですか?

れ 分けてるというか関係がない感じですね。石油出ないし。例えばデリダやブルデューはアルジェリアの話するけど、それより下のアフリカの話はしないですよね。そういう問題ですよ。

ゆ フランスはアルジェリア独立戦争の文脈があるし、デリダはアルジェリア出身だし…

い たしかブルデューはアルジェリアを調査してましたよね。

ゆ カミュもアルジェリア出身だし、バルトもモロッコまでしか行ったことがないから…

れ 南の方で言えば、最近だとアーサー・C・クラーク賞を取ったナムワリ・サーペルというナミビアの作家が、アフリカン・フューチャリズムの話はしてますね。でもナムワリ・サーペルは今アメリカに住んでますけどね。

アフロフューチャリズムの想像力と日本のオタク

い アフロフューチャリズムにおいてアフリカをちゃんと考えるというのは大事な一方で、アフロフューチャリズムと日本の関係についても話したほうがいいかも。大和田さんが解説でほのめかしているように、日本のオタク文化とも親和性がある。菊地成孔が『アフロ・ディズニー』で、日本のオタクと黒人が接点を持ちうるって雑なことを言ってるけど、アフロフューチャリズムを通すと実はあながちありうる話で。例えばアフロフューチャリズムを説明するとき、僕は半ば冗談で遊戯王を例に出すことがある。あれは遊戯が失った自分の本当の名前を求めて過去を掘り進める物語で、結果、エジプトのファラオなわけです。もっと言えば、その古代の石版に描かれていたモンスターを海馬が最先端のテクノロジーで戦わせる話だと。めちゃくちゃアフロフューチャリズムでしょ(笑)。ラッパーもなぜか遊戯王好きな人多いし。遊戯王はアフロフューチャリズムなんですよ。

れ それでいえばこの前、僕がアフロフューチャリズムの話をしたら、プッチ神父の「メイドインヘブン」、加速して神が下りてくる、というのをNASAでやるというのが…

ゆ ジョジョ六部の『ストーン・オーシャン』終盤が完全にアフロフューチャリズムだという話をしましたね。

い 著者もけっこうオタクで、「ブラックギーク」みたいなことを言ってたけど、そういいう感性なんでしょうね。

ゆ でもギークなのか…という気分になったんですよね。反転するならナードも反転させるべきでしょう。やっぱりファッショナブルなギークじゃなきゃいけないのか…という。受け入れられるものを措定している気がする。そこは公民権運動とか、そういうある種アメリカの黒人の歴史的なねじれとつながっているような気もして…マルコムXとキング牧師に象徴されるような、認められつつ独立するみたいな二つの軸というか。それがブラックギークにつながっているのかなあ、という。そこは安易につなげていい気はしませんが…

れ 一番加速主義っぽいのが45頁の「ポスト・ヒューマンの誕生」という節ですね。トランスヒューマニズム、ヤバすぎる。著者からすればアフロフューチャリズムと(加速主義が)結びついているのはここなんですよ。それで考えれば接点はあると思うんだけど、そのマシンに使う原材料はどこから採ってくるんですかという話です。けっきょくアメリカの話しかしてないじゃないですかこれは~

一同(引きつつ笑い)

い 確かにそれはそうね。想像力もいいけど、政治性が不徹底な気はします。新しい科学技術最高!みたいな、技術の賛歌みたいなのが書き方のノリとしてありますね。

ゆ そうですよね、時期的な問題も強そうだけど…でも難しいですね。ここで環境の話を持ってくると安易に脱成長みたいな文脈でまとまっちゃいそう。あとアフロフューチャリズムもそうですけど、加速主義まわりに未来主義みたいなのがあるじゃないですか、あれすごく変だなと思って。もともと未来派の文脈があって、それを踏襲してアフロフューチャリズムをやってるんでしょうけど、未来派的なものがファシズムに近いという文脈があるように、未来派自体がそもそも中心主義的なところがあって。そこでいうと中華未来主義も、西洋人の勝手な中国社会への幻想・妄想を持つニック・ランドたちに対するユク・ホイの批判が出発点にあるんですが…

れ ブレードランナーみたいなことですか?

ゆ そうですね。ねじれたアジア像みたいな。リアルな中国に対しても、上海とかでテクノロジーと独裁の力を見ている。それがオリエンタリズム、中華幻想だというところで中華未来主義が批判として出てきたのが、ヨーロッパで(中華未来主義を)掲げることに意味があると取られるようになった。そういう80年代以降のカルチュラル・スタディーズに残り続ける未来派的なものがある上に、加速主義の文脈でも、日本のマイナーな未来派詩人(例えば、 平戸廉吉)がイギリスのカルスタで有名だったり…80年代から未来主義が英米圏で人気だったというか、想像力的に世界が変わっていくというテクノロジーの問題があるところに、テクノロジーを掲げた人たちをフューチャリストと呼ぶようになった。

い その観点はものすごく重要で、元々のフューチャリズムとの関係についてもこの本で触れてくれてもよかったと思うし、アジアのテクノロジーとの関係を横に置いて考えると良い研究になりそうですね。僕もヒップホップから入ってるので、アフリカン・アメリカンの話だけだと思い込んでたけど、中国も並べたら面白いなと思います。
 あと、政治的に大事かはさておき、分析概念として文化や音楽が使えるというのは確かにそうです。たとえば僕が好きなのは、大和田俊之が『アメリカ音楽史』でMJのムーンウォークを分析して、月の動き(未来)とミンストレル・ショウ(過去)とを同時に連想させる点で過去と未来が共存していると言ったり、トリーシャ・ローズが、アフロフューチャリズムでロボットを扱うのは奴隷はロボットだからと言ったりなど、そうした意味合いで、批評の武器としては使える概念だとは思いますね。

ゆ テクノロジーと疎外(alienation)という文脈で言えば、小谷真理の『女性状無意識』でも、面白かったのが、宇宙からヴァギナだけのエイリアンが出てきて男性がずっとセックスして、女性がだんだん関係なくなっていくという話があるんですが、“リプロダクション”という名前が、男性に再生産、女性に生殖という役割をあてがって、女性が再生産の道具=テクノロジーとして、工場として扱われてきたと。それを反転して女性に押しつけられたエイリアン性を明らかにする、というのをSFと重ねるのが鋭いと思いました。疎外されてきた/道具として扱われてきたという文脈からアフロフューチャリズムやサイボーグフェミニズムが出てくるのはある意味当然だし、批評としてかなり鋭かったりするのが面白かった。
 加速主義の文脈で言えば、ゼノフェミニズム(Xenofeminism)だと、「疎外(alienation)」はマルクス的な文脈を含めつつ、それがある階級・ジェンダーに統合される疎外ではなく、エイリアン化(alienation)という異質な現象が大事なんだと。ジェンダー・階級を解体するところにテクノロジーの力がある、エイリアネーションとして異質なことを起こすことが重要だとして、解体に(バイオ)テクノロジーの力を見出す運動がある。そういったフェミニズムやアフロフューチャリズムみたいな運動が、「ものとして扱われる」ことと「技術」がつながったり、未来と自分たちの過去がつながるのがわかる、というか。

い そう聞くとゼノフェミニズムとアフロフューチャリズムの戦略は案外似てますね。ぬかるみ派でこの読書会をやった意義がありますね。

ゆ そうですね。ゼノフォビアのゼノ(xeno-)=異国性ともつながるように、この2つは文脈として繋がっている。マーク・フィッシャーがフェミニズムのない加速主義はダメなんだと言い、加速主義とフェミニズムの合体を称揚するのも、テクノロジーと疎外の関係があるからだと思います。

い そう考えるとエイリアン性は大事ですね。テクノロジーを使って人間性を切り崩すという戦略が取られる一方で、エイリアン性をどうあつかうか、という問題については、僕はデリダの『歓待について』の議論を思い出しますが。小川さんは何かないですか?

お あまり読み込めてないですが、同時期に翻訳されたユク・ホイの『中国における技術への問い』ともつなげて考えられる気がしました。この本は技術論が宇宙論とつながるという話をしているんですが、『アフロフューチャリズム』を読んでも、技術論が宇宙論につながる、というのがいまいち飲み込めなかった。僕自身は工学部なので、技術というとまずエアコンみたいなものだという認識がある。そこはみなさんは疑問に思いませんでしたか?

い 冷戦下でソ連とアメリカのどっちが先に宇宙に行くかという競争みたいなものの名残りな気もしますけど。

ゆ アフロフューチャリズム、中華未来主義、それともうひとつロシア宇宙主義が繋がる気がして、それがエイリアンとつながっているんじゃないか。「宇宙から来る」ということと「宇宙に戻る」というのが、さっきの話のエイリアン性と宇宙がつながっている、というのと、疎外された過去がエイリアン性に反転する、というところで、未来的な要素をもったときに、エイリアン性が宇宙につながるのはわかる、というか…

い アフロフューチャリズムのこの本が、資本主義の問題を扱っていないところが致命的な気はする。グローバル資本主義によって地球のあらゆるところが外部でなくなり、革命が不可能になったというのが現代左翼の認識で、その「資本主義の外部」を想像するとなると宇宙に行くしかない。たしか千坂恭二も宇宙人が攻めてきたら宇宙人の側につくのが革命だと言ってたし(笑)。

れ カール・シュミットも宇宙パルチザンって言ってますからね。

い そのへんとも意外とつながってきますね。

れ 資本主義の問題で言えば、コドウォ・エシュンは2003年のアフロフューチャリズム論文で、マーク・フィッシャーから借りてきた「SF資本」というのを出してくるんですよ。「SF資本」というのは、ディズニーが作るような大衆受けするSF映画が資本の動きに棹さして資本の流れに与することを言うんですが、それを受けて、コドウォ・エシュンが市場ディストピアというのを言っています。アフリカに関する窮乏化の未来予測を、未来学者が言明することで、パフォーマティブにそういう未来ができてしまう。投機がまさしくそうですが、未来はこういう風になる、と言ったら、そっちにデカい資本が動いて自己実現してしまう。最近ではSFプロトタイピングみたいによくない使われ方をしてますが。
 コドウォ・エシュンが言うのは、アフロフューチャリズムをもっと陣地戦的に使えということです。資本は過去だけでなく未来も植民地化するから、対抗的な未来表象を差し出して、それに対抗しろと言うわけです。

お 読んだことなかったけど、コドウォ・エシュンめっちゃいいこと言ってますね。鋭い。

陰謀論と左派加速主義

ゆ 栗田英彦の「マルクス主義的陰謀論の諸相」【注:栗田英彦(2021)「マルクス主義的陰謀論の諸相──デリダ・ジェイムソン・太田竜」(茂木謙之介編『〈怪異〉とナショナリズム』所収)を参照】 で、デリダの憑在論と太田竜のレプティリアン(爬虫類人類)を比較して、さらに太田竜に影響を与えたアメリカ人をデリダやジェイムソンと比較してるんだけど、それが面白い。最初にレプティリアンを言い出したデイヴィッド・アイクが「仮にレプティリアンがいなくても私たちは(レプティリアンを)生み出していただろう」ということを言っていて、レプティリアンによる支配が妄想であることを暗示しつつも、レプティリアンは宇宙人=エイリアンであり、聖書における敵であるというところから、過去と未来から自分たちが阻害されているという。これはある意味で倒錯したラディカルかもしれないが。
 太田竜がアイヌから原住民へと遡るように、最終的に起源がなくなってしまうと宇宙人を持ってくるという想像力だと思うんですけど、陰謀論チックなものと、過去の原住民という共同幻想がつながる、というのがこの話につながるのかな〜と漠然と考えていました。

い 面白い。陰謀論や宗教というところだと、ネーション・オブ・イスラームから分派したファイブパーセンターズというのがあるんだけど、それがJay-Zみたいなラッパーも信仰してる(してた?)というので、ヒップホップでよく議論されます。数字に秘教的な意味を読み込んだりして、それがラップのリリックに反映されたりしてきました。こうした想像力が宗教や陰謀論と結びつくのはあると思いますね。ファイブパーセンターズは反レイシズムの宗教ではあるけど、どう扱えばよいのやら、という。

ゆ そこは難しいところですね。革命や運動体として力を持つにはけっきょく陰謀論性が必要だというのはあります。栗田さんも、バブーフの乱やマルクス以前の社会主義的なものに陰謀論がまとわりつくという話をしてて、そこにたどりつかなかったものにレプティリアンが出てくる。加速主義とのつながりでいうと、右派加速主義がQアノンやオルタナ右翼と見分けがつかないという問題があります。アメリカのメディアの記事を読んでても、加速主義者=陰謀論者・排外主義者というのが定式化されていることが多い。陰謀論やオルタナ右翼的なものが症状として出ているというか。ファイブパーセンターズに関しては、反レイシズムの点で評価がしづらい、となるけど、右派加速主義の場合だと白人のリバタリアンが〜となって、激ヤバな人たちしか出てこない。最近邦訳された4chanの本【タリア ラヴィン (訳・道本 美穂 )『地獄への潜入 白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』(柏書房、2022)を参照】でも、加速主義者はユダヤ迫害の文脈で紹介されていて、そこは難しいというか…

い じゃあ、ぬかるみ派は左派加速主義者に希望を感じている?

ゆ 難しいところは、ゼノフェミニズムなどに影響を与えたニック・ランドが白人至上主義になってて、それを加速主義論者たちも扱いかねていることです。僕らとしては翻訳したうえで考える地盤を持とうというのがスタンス。それこそフィッシャーが加速主義のひとつとして家父長制批判をする、今ある資本主義は近代資本主義でそれを解体すべきというニック・ランドの『カント、資本主義、近親相姦の禁止』みたいな純然たる資本主義を取り出すというところは、フェミニズムと両立するよね、と思う。螺旋から抜けたところに新たなものがある。自由(freedom)を求めることは、それと同じ運動。フェミニズム的なものが自由主義の真なるもの、みたいな。 そういうのを持ってくるのが加速主義を今論じる人のモチベーション。
国家に抗すればいいのか、でも新しい市場をつくっちゃ意味ないよね、とか。

い 国家にとらわれずに自由に経済活動をしよう、というのは大資本家たちやギャングもそうでしょう。だけど、いまある悪いほうの資本主義の外を描くのが大事だし、ここから一歩踏み込むとしたら、ダメなアフロフューチャリズムもあるし、反動的なアフロフューチャリズムもあるし、革命的なアフロフューチャリズムもある、というのを紹介すべきだと思います。まあこの本は紹介だからしょうがないけど。

れ STEM教育の話(67頁)がそうですが、結局この本でずっと言ってるのは利益再分配じゃないですか。

い その点でもアメリカ中心主義で、アメリカ国内での再分配に限られている、というのはレガスピさんのおっしゃるとおりですね。中国・アフリカ・西欧の加速主義とかとつなげて考えなきゃダメな感じはしますね。

お レガスピさんに聞きたいんですけど、アメリカ国内でアフロフューチャリストが他の有色人種に言及したり、それを作品に取り入れたりというのはある?

れ 寡聞にして聞かないですね…

い いや、大和田さんが言うようにアフロアジア的想像力(258頁)というのもあって、ラッパーもドラゴンボールやナルトが好きだったりするし、そういう想像力との親和性は一応ありますよ。

れ うーん…

い そんだけじゃねえか、ってこと?初音ミク使ったから何だよみたいな。

れ 薄いw

い たとえば60年代とかなら、毛沢東主義との関係があったり、空手を習ってる活動家がいたりしたんですよ。アジアも想像力の対象として、アフリカン・アメリカンの想像力に組み込まれている側面があるとは言えます。

ゆ 『ベストキッド』みたいな感じですか?

い そうそう。Kダブシャインがアメリカでそのネタ使うとウケて友達ができた、みたいな話をよく言ってます。それぐらい人気はあるらしい。でもちゃんとアジアのことについても考えないといけませんね。

ゆ 小川くんはさっきの宇宙の話とかどうですか?全体としてどう思った?

お どうだろう…全般的に、僕が片手落ちな感じをつねに感じてしまうのは、人種の話にはなっても、場所の話や、そこから気候や地政学の方向に広がっていかないところです。そういう方向でなら資本の問題もかなり扱えるし、そこと本来絡めてやっていくべきところですよね。

い そうですね、本当にそう思います。めっちゃそもそもな質問で本筋とも全然ズレるんですが、レガスピさんはなぜアフリカを研究対象にしたんですか?

れ 僕は文化人類学が好きだったので。自分でもなぜアフリカをやっているのか全然わかりませんが、なんか好きなんですよ。

い それで批評っぽいこともやってるの特殊じゃありません?

れ よく言われます。

い なんとなくこうなった感じ?

れ なんとなく生きてたらこうなってしまった。

まとめ

ゆ そろそろ締めに入りたいんですが、話し足りないところとかありますか?

い 僕はだいたい言ったかな。

ゆ ほかの方は?

れ マーク・フィッシャーにもアフロフューチャリズムと憑在論の問題系が重なっていると言っている論文があるんですが、それ以上深まらないので…

ゆ ぬるい、というか(笑)

い 『わが人生の亡霊たち』でも、ヒップホップで扱うのはカニエとドレイクくらいで、二人ともオートチューン扱ってる人、という文脈ですね。リアルな声が機械を通る、という。ただカニエがオートチューンを使い始めたのは、母が死んだショックを歌うアルバムからで、それもフィッシャーであれば幽霊とか言いそうだなあ、という感じだし。

ゆ フィッシャーの関心としては、外部と内部が混ざるというのが重要だったと思います。でもこのあたりがイギリスとアメリカでは同じ言語でもリアリティの違いがデカそうな気はします。フィッシャーならホラーの話を、たとえばトイストーリー3でトトロが人形として出てきたりして、現実の人形とも境界が入り混じって、現実の人形も怖くなる、というのが重要というか、そこに外部が突き抜けてくるというのがホラー的な想像力の力点としてある。

い 思い出した話があって、ヒップホップをテクノロジーの面で担ったのは日本人という話がある。大島純『MPC IMPACT!』という本も出てますが、ヒップホップには日本製の機械が基本だった。かつてのジャパンアズナンバーワン的な、いまや失われた話ですが、機械を作る日本人とそれを面白く使うアフリカン・アメリカンという構図で考えることは可能、とか…。

ゆ ここまで話して、加速主義や全体の見通しも共有できたと思うので、このあたりで終わりたいと思います。みなさんお集まりいただきありがとうございました。 

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