主催者の自己紹介記事の準備 #4
自己紹介記事の続きです。今日も好きな本を紹介していきます。
今まで書いた自己紹介記事
サルトル『嘔吐』
人はなぜ日記をつけるのか。日記をつけることでもしかしたら恐ろしいところに足を踏み入れることもあるかもしれないのに。
『嘔吐』はアントワーヌ・ロカンタンという人間の日記である。この日記は、ある「違和感」からこの日記が始まっているように、この感覚はなんだろう?なぜこのように世界を感じるのか?という自己分析である。
一般的な小説の筋はほぼない。何も起こらない。しかし、自分自身を深くまで分析することはかなりスリリングな体験であると教えてくれる作品である。
坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他22篇』
「そのまま」を肯定するのはなかなか難しい。だからぼくらは表現する時、何かしらの脚色をしてしまう。誇張する表現や美しい表現で。
なぜぼくたちは「そのまま」をなかなか肯定できないのだろう。例えばそのままの自分について。自分は年々老化していき肌も汚くなっていく。長く生きていると何らかの罪を抱えてしまい、それ故自分自身を肯定できなくなっていく。それは、自分以外モノもそうだ。基本的に経年劣化していく。
でも本当の純粋性、本来性なんてない。生まれ落ちた瞬間から、この世界の何らかの影響を受けているからだ。だから人間の純粋性なんてものは幻想である。しかし、ぼくたちはその幻想を欲してしまう。「本来自分はここにいるべきじゃなかった人間だ」「近代や資本主義は人間の本来性を壊している」「自然のままで居たい」などなどこの社会には純粋性を欲する人に対する言葉に溢れている。
だから、坂口安吾の言うように「人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」生きていくことは堕ちること。坂口安吾は堕ちゆく「そのまま」の人間を肯定する。それは人間だけではない。動物や、モノ、世界を「そのまま」肯定する。それは単純に「生きていくのって美しいよね〜」という歯の浮くような言葉ではなく、文学で肯定していく。
この世界に文学がなぜ必要なのか、疑問に思っている人におすすめ。
中原昌也『中原昌也作業日誌』
なんだろう、なぜこんなに面白いのか。
ここにあるのは、膨大なよくわからないCD、映画、音楽機材、本。そして、カネがないつらい書きたくないだけだ。
それらになにか意味を持たせていない。中原昌也が紹介する作品を鑑賞したいとも思わない(いや逆に思うかもしれない)
この本に対してなにか言う事自体が間違っている。意味を与えてはいけない。