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11/12 早朝読書会 夏目漱石『夢十夜 第六夜』

読書会をやってみて

夏目漱石『夢十夜 第六夜』の読書会を4名で行いました。
第六夜は運慶が護国寺で仁王像を作っているシーンからはじましました。運慶は鎌倉時代の仏師(仏像を専門に作る者)ですが、聴衆は明治の人たちです。聴衆は運慶や仁王像に対してあれやこれや言っている。そして自分も仁王像を作れるかなと思って作ってみようとしたら、うまくできなかったと言うのがオチでした。
読書会を進めていく中で、この第六夜は「批評」について語っているのだと思いました。岡倉天心とフェノロサの話が出ましたが、彼らは明治時代に寺社仏閣を評価して、新たに美術的な価値を与えました。それは、近代以前の文化を今までの文脈から、読み替えをしていく仕事だと言えるでしょう。運慶は仏師=職人でしたが、明治以降は美術家としての評価を与えられました。第六夜で出てくる明治の聴衆はあれやこれや批評しています。しかし、運慶は聴衆の方を見向きもせず掘り続けてます。これは、批評の一方通行性を表していると思いました。ぼくらは夏目漱石など何を語るにしても、一方向から語るしかありません。漱石の問題意識や、漱石的な作風、について語りますが漱石は無言でいるしかない。その語りは漱石に一致するように努めながらも、どこかズレていきます。
なぜ運慶が明治生きているのか?それは、明治に人たちが運慶について語り続けてきたからです。しかし、その語りは運慶からズレていくしかない。明治の木の中には仁王がいないのもその象徴だと思いました。運慶が仁王を作れたのは鎌倉時代のあの瞬間、あの場にあの運慶がおり、運慶が意識的、無意識的にあの手の動かし方をした、あの木を使ったので、仁王像が完成しました(もしかして偶然的なものも関わっているかもしれません)。そのことは、仁王像を残していっさいが過ぎ去ってしまいます。別の時代に別の人間が別の木を使ったら、仁王像は作れないのです。なので主人公が仁王像を掘るのを失敗してしまいました。
人の反復すること欲望とその不可能性。それをこの作品を読んで感じました。

ご参加いただいた方の感想

あぶくさん
初めて読書会というものに参加させていただきました。難しい内容の本でしたが、どんな意見も受け入れてもらえそうな雰囲気で参加しやすく心地良かったです。他の皆さんがとても物知りで聞いてるだけでも楽しい時間でした。様々なジャンルの知識がベースにあると、本の解釈が広がりますね。勉強になりました。ありがとうございました。

次回

次回以降の予定は以下の通りとなっています。すべて土曜朝6時から7時開催です。
興味ある方は、ぜひご参加ください。

11/19 『旧約聖書 ヨブ記』4〜7章

11/26 井上陽水などのフォークソング(もう少し色んな曲を聞いてからまた後日企画いたします)
   →宮沢賢治『春と修羅』序


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